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 強がりではないと瞬時に認識を改めた。その瞬間、狂人に()りきれていない戸田の心に、えも言われぬ恐怖がじわりと顔を覗かせる。  ──本物の、狂人か。 「……そうなんだ。でももう限界でしょ? 残念だなあ。まだあのデカブツくん相手の方が強そうだし楽しかったかな?」  取り繕うように、言葉で無理矢理自身の恐れと矢野の闘志を抑え込むように言い放つ。必死に吊り上げた口角が僅かに震えるが、それでも圧倒的に優位なのは自分だ。何も、何も恐れることはない。  瞬間、ぴり、と空気に変化が起こった。何かのスイッチを押したような、禁忌の扉を開いてしまったような、そんな不吉な空気。何が変わったのかを戸田が理解したのは、目の前に影がゆらりと現れた直後のことだった。 「っ!?」  一瞬で視界が闇に取り込まれ、反射的に頭を右に出来る限り傾ける。コンマ数秒前まで顔があった位置に切り裂くような風圧が生まれ、同時に戸田の左頬に鋭い痛みが走った。  既にこの空間に蔓延している鉄錆びた臭いが、僅かに強くなる。その原因が戸田自身の頬から流れる血だということは、すぐに理解できた。 「──……クソがッ!」  悪態をつきながら、戸田は咄嗟に目の前の塊に握り締めた右手を下から思いっきり打ち込んだ。確かに感じる重い手応えは、拳が相手の体にめり込んだことを伝えてくる。先程までなら、呻き声の一つは聞こえるであろう打撃。  しかし。 「……っ」  拳に押されてか、微かに息が漏れる音が響く。戸田の鼓膜を揺らしたのは、確かにそれだけだった。相手の体にめり込んでいる手からぞわり、と這い上がる悪寒。  本能が叫ぶ。脳内で盛大に警鐘を鳴らす。危険だ、今までとは訳が違う、と。頭では分かっているのだ。だが、溢れ出した恐怖が、身体をその場に縫い付ける。 「……オレの方が……」  怒気を孕んだ声とともに、動けなくなった戸田の髪の毛が乱暴に掴まれ、そのまま無理矢理上を向かされた。ぐんと濃くなった鉄臭さが、相手の怪我の具合を物語っている。あまりの異常さに血の気が引いた戸田の肌に、ぼた、ぼた、と頭上から降る雨が紅をさした。カチューシャで止められていたはずの赤く染まった髪が、痛みに歪む戸田の顔に垂れ下がる。  瞬きすらできなくなった瞳が映す、自身を追い詰めている狂気。逃げることを許さない底無し沼のように澱んだ眼が、戸田の視界を侵食していく。      

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