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「――あのドブネズミ野郎より強いに決まってんだろうが」
腹の底へ響く唸り声が至近距離で発せられた直後、今まで戸田の視界を占拠していた漆黒がぶれ、代わりに大量の暗い赤と僅かの白の何かに移り変わる。
「ッぐ……!」
瞬時にそれが大きく開かれた口だと察した戸田は、咄嗟の判断で頭を思いきり後ろへ引っ張った。掴まれた髪の毛がブチブチ、と抜けて苦しげな声とともに眼前に垂れた瞬間、先程まで戸田の鼻があった場所へガチン! と容赦無く血に塗れた鋭い歯が閉じられる。頭皮が引き攣れるような痛みがトリガーになりようやく動き始めた足で、先程拳を叩き込んだ場所を蹴り飛ばしながら、戸田は出来るだけ距離をとるようにして地面に背中から倒れ込んだ。硬い床に打ち付けられた拍子に一瞬息が止まる。その時間すら今の戸田には無駄にするには惜しい。すぐに起き上がりかけた戸田の視界に、高速で向かってくる脚が映る。
避けられない。立つのは諦め、せめて頭への負担は減らそうと、両腕でその衝撃を受ける。その瞬間、あまりのエネルギー量にみし、と筋肉と骨が悲鳴をあげた。
「――ぐぅっ……!」
再び戸田の背中を床につけさせ、さらにはその頭を腕ごと踏み潰さんとする勢いで、脚の主は異様な程の力で戸田を追い詰めている。それだけではない。先程からの反応、動きから推測するに、この相手は物理的に痛みを感じていない。あれだけ痛めつけた体では、いくら我慢強いからと言って、身体の状態を気にせず息すらも乱さずに動き回るのは不可能だ。事実、戸田が怒らせる前までは、息も絶え絶えな様子で床に這いつくばっていた。意識は平静を保てていたとしても、身体は正直だ。
それがたった一言、橋立の方が強いと言っただけでこうなるのか。
矢野の橋立に対するコンプレックスの話は、花咲から聞いている。矢野は橋立に喧嘩で勝ったことがないらしい。何十回挑んで、一度たりとも。だから、そのコンプレックスを刺激すれば怒るのではないか、というのが花咲の予想だった。
確かにそこまで負け続けても勝負に挑むくらいなのだから、よほど気にしているのだろうと戸田は思っていた。ただ、これほどまでの激情であることは想定外だ。そして、その激情が本人の身体すらも変えてしまうことなんて、誰が予想できるのか。
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