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初恋は実らないというけれど

 健吾の生活態度は相変わらずのようだったが、十月になり式は挙げずに取り敢えず入籍を済ませたようで、官舎から出て行った。  元々家族向けなのだからそのまま住むのが安上がりなのだが、三村がもっと新しいところが良いと我侭を言ったらしく、少し遠い場所でアパートに住んでいると水上経由で孝也は知った。  水上は浅尾と気が合わないものの、あちらから何でもぺらぺら話し掛けてくるから情報収入源として役立てているようだ。  これで官舎でビクビクしないで済むと片山は喜んでくれたが、頷きつつも何処か寂しく感じている自分がいて、孝也は未だに割り切れないでいる己に戸惑っていた。  試験の方は、一次試験の合格通知が届き、片山と二人揃って祝い合う事が出来た。二次試験は面接と健康診断のような感じなので、余程のことがない限りは大丈夫と課長も請け負ってくれた。  事実、月末の二次試験には二人とも合格し、十一月半ばには内定を貰い勤務先の希望を出すことになったのだった。  その頃にも夕食を共にする生活は続いていて、水上も交えて三人でアルコール有りのささやかな祝いの席を設けた。  とはいえ、駅の近くの居酒屋であるが、普段節約している男二人にとってはそれでも贅沢な食事だった。 「えっ、吉木、山陰希望出したんだ」  水上と片山は声を揃えて驚いた顔になった。 「うん。この辺りの窓口は忙しいからいきなりは厳しいし、どうせ数年で異動になるにしても最初は田舎でゆっくり仕事身に付けようと思って」  頷く孝也に、梅酒のロックグラスを傾けながら水上も同意する。  そう言われたらそうかも。確かに今でこそ慣れたけど、一つ一つの手順すら覚束ないのに最初からわーっと客が来る局だとテンパって何やってんのかわかんなくなってさ、私だって何度お客様に怒鳴り上げられたことか。  笑顔でテキパキと捌く水上ですらそうだったんだと、片山と二人で戦慄した。  接客業をこなしつつ、営業のノルマもある。解っていて受験したものの、やはり先行き不安な二人である。  片山は近隣市内、もしくは事務センターで希望を出しているので、場所によっては苦労しそうだった。  水上も今の職場に落ち着く前は採用後に六局を巡回し、その後部会の違う別の局に固定したものの一年でまた別の部会の局に転勤になっている。色々な局の内情を知っていて顔が広いのにはこういう事情もあるのだった。  三月、孝也は希望通り山間部の特定郵便局に、片山は市内の別の集配局の管内の特定局へと配置が決まった。まだ内示ではあるが、辞令だと取って差し支えないだろう。  水上情報に寄ると、片山が行く場所は貯金保険はさほどではないが、近くにある店舗や短期大学から大口の代金引換や別納郵便を受ける環境にあるらしい。  配達をしていた片山にとってはとっつき易いだろうと、取り敢えず片山は肩の力が抜けたようだった。  孝也の行くところは隣の県だし全く様子がわからない。水上の同期らがいるのはもっと街中らしく、局長と二人だけのところということしか判らなかった。  まあつまり、孝也の希望通り、過疎地ということなのだろう。人が少なすぎて勿論官舎などはないから、まずは住まいを探さないといけない。  次の土日で一緒に見に行こうと、片山が車を出してくれた。 「山だね」「山だな。寧ろ山しかないな」  車窓から見える落葉したままの木々と、新芽が出掛けているものがちらほら、そんな緑と茶色の風景の中を延々と走り続け、ようやく僅かな集落のようなものを発見して、畑仕事をしているご老人を掴まえて道を尋ねた。  四月から新しく来ることになりましたと礼儀正しく挨拶する孝也に、七十代くらいの男性は嬉しそうに目を細めた。 「そうかい。もうじき産休に入るとかでな、折角若い人が来て華やいでいたっつーのに、今度はどんな人だとこの辺りではもちきりだよ。しっかり頑張れな。まあ、誰も急かすようなことは言わんから、ちょっとずつ憶えればええ」  はい、と応じる孝也も、ほっと力を抜いた。  温かそうな雰囲気である。  なだらかな傾斜地に日本瓦の家屋がぽつぽつと点在し、皆隣までは百メートル以上空いている。家と家の間には畑や田んぼがあり、見晴らしが良い。  その一角にある二階建ての建物が局舎のようだった。  近付くと良く判るのだが、一階の一部が店舗扱いになっている昔ながらの建物だ。所謂地方の豪族が地元のために私財で賄っているのだ。  最近では専用の建物ばかりの街中に慣れつつあった二人は緊張してしまった。  けれど、挨拶をしないことには話が進まない。流石にここは当事者の孝也が一人で行くことにして、片山は近くの道の端に車を停めて辺りを散歩することにした。  カチコチに固まった孝也を微笑ましげに迎えてくれたのは、予想通りとうに定年を過ぎていそうな老齢の夫婦だった。  聞けば、殆どの人はこの建物に下宿するらしく、今居る女性も最初はここに下宿していたのだが、近くの青年と懇ろになり結婚して別の家に引っ越したのだという。  だから早めに荷物を運んで来ても良いよと、大歓迎ムードだった。  孝也も自分の祖父母が懐かしくなり、少し話をしてからおいとましたのだった。  官舎と同じくらいの破格の家賃で下宿させてもらえるということで、いくら過疎地でも皆それなりに貯金をしたり、年金の支給が始まったりするものだから、それらの手当が付くようになった孝也の手取りは随分増えた。  免許だけは取得していたから、異動までに軽自動車を中古で買い、仕事でも使った。  思っていたように、年寄りだけの家が多い。だからご機嫌伺いも兼ねて毎日数軒ずつ回り、頼まれればちょっとした買い物や電球を付け替えたりなどの雑用もこなし、孫のように可愛がられた。  そうしてあっという間に一年が過ぎ、夏期休暇と年末年始には帰省していたので、孝也はただ温かさだけに包まれ、ゆっくりと心を癒されて行った。  月に一度くらいは、片山が一人で会いに来てくれた。そんな時は局長夫妻と一緒になって飲みながら和気藹々と語り、孝也の部屋に泊まって日曜の昼には帰って行った。  片山も山の空気が気に入っているようで、たまには俺が行こうかと言っても、それはまた今度とはぐらかされる。水上からは同じくらいのペースで手紙が届き、それに返事を書くのも楽しみだった。  近所の農作業の手伝いもするのだと書いたら、今度野菜を食べさせてと興味津々だった。  年度が変わり、片山が来た時に同期会の話が出ていると言われた。駅近くの宴会場を借りて、市内に散らばっている同年度の採用者が集まるらしい。例によって発起人は山浦だというのが気にはなるが、人数が多い中でそうそう何かはないだろう。ゴールデンウィーク中の日取りだから、窓口勤務じゃないものはもしかしたら来られないかもしれないという片山は、やはり健吾のことを気にしてか、無理して参加しなくてもいいと、一応伝えただけだからと念を押した。  けれど、この頃にはもう随分気持ちが凪いで居て、思い出の中の健吾は、孝也にとっては優しかった頃と半々に浮かぶようになっていた。  実際、あの最後さえなければ、孝也にとっては初めて本気で好きになった相手だったのだ。ただそれが、体の関係から始まった同性だというだけのことで。  初恋は実らない。美しいままにしておくのが良いと、よく言われる。  その通りだと思った。  だからもしかしたら、このまま会わない方が良いのかもしれない。  でもそうやって一生逃げていかなくてはならないのだろうか。あれから健吾だって父親になってもう落ち着いている筈だ。  だったら、会って話したとしても、妻子の惚気話なんかでにこやかに出来るのではないかと、楽天的に考えてもみた。  片山も同期との繋がりは殆どないようで、ただ今度の集まりは大規模になるから連絡網が回ってきたらしい。孝也にもと伝言を頼まれたと言っていた。  参加するなら俺も行くと言う片山の言葉に甘え、ついでに泊めてと頼むと、勿論と照れたように笑顔を向けられた。

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