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愛しさと哀しみ 1

 瑠衣がこの家を去ってから、あっという間に二カ月が経っていた。  四月に僕は大学四年生になり、雪也は中等科に進学した。黒い学ランは小柄な雪也には重たそうだったが、ランドセルを卒業し、少し大人になった気分なのか、始終ご機嫌だった。  大学の勉強と家の事業の手伝い。  二足の草鞋を履く生活は忙しいが、充実していた。  瑠衣のいない穴を埋めるためにも懸命に過ごしていた。  夜、自室の書斎で勉強していると、雪也がおずおずと近づいてきた。 「兄さま、あの……」 「なんだい?」 「あのね……書庫で取って欲しい本があって、その、すごく上の方にあるから」 「うん、いいよ。一緒に行こう」  万年筆を置き、薄いブルーグレーのシルクのガウンを羽織って、一緒に書庫に向かった。 「兄さま、ごめんなさい」 「なんで謝るのか」 「だって、お勉強でお忙しいのに」 「いいんだよ。瑠衣の代わりに執事の仕事も任されているし、この位どってことないよ」 「でも……やっぱりごめんなさい。僕がもっと丈夫だったら……お兄様の負担を減らせたのに」 「そんなこと考えなくていいんだよ。雪也は病気を治すことだけを考えていればいい」 「僕、早く大きくなって、お兄様の隣に並びたいです。お手伝いしたいです」 「うん、待ってるよ。さて、どの本?」 「あっあの一番上の右端の」 「分かった。脚立を持ってくるね」  僕もこうやって瑠衣によく本を選んでもらったな。  ふと懐かしい日々を回顧してしまった。  瑠衣。元気にやっているのか。もうここのことは忘れて、瑠衣の人生を歩んで欲しい。    ロンドンの執事養成学校で学んだ瑠衣は、帰国後そのままこの屋敷にやってきた。年若い瑠衣が結婚もせず13年間も務めてくれた。ほぼ24時間、僕と雪也の面倒をみてくれた。それだけでも感謝の気持ちで一杯だよ。 「雪也、この本かい?」 「そのもう一つ上の段の……あっその横です」 「んっ」  僕がもう少し背が高かったらよかったのに……  脚立の上でぐっと背伸びし、つま先立ちになり、指先で本を探る。 「兄さまお気を付けて。あっその本です」 「分かった」  本を取りだそうとしたら、バランスを崩して倒れてしまった。 「わぁぁっ」  バラバラと数冊の本が上から一緒に降って来た。そこから身を守るので精一杯だった。重たい洋書が肩を直撃し激痛が走った。 「に……兄さま、大丈夫ですか。今、お母様を呼んできます」  余計な心配をかけてしまう。 「待って! 僕は大丈夫だよ。それよりお前にケガはない?」 「僕は離れた場所にいたので、大丈夫です」 「そう、ならよかった。ごめんよ。カッコ悪いところ見せて」 「そんなっ、兄さまはいつもカッコいいです」  雪也が涙目になって訴える。そういう所が本当に可愛い。  とにかく雪也に怪我なくてよかった。   「はい。この本だね」 「ありがとう!」 「他は戻して置くからもうお部屋にお戻り、ここは少し冷えているから」 「はい!」  雪也を帰し散らばった本を整理していたら、手が停まってしまった。  あ……これって、僕が小さい頃気に入っていた本だ。  挿絵に心惹かれて。    でも、いつまでもこんなおとぎ話に憧れていては駄目と、瑠衣に頼んで見えない所にしまってもらったはずだ。  何だ……こんな所にあったのか、瑠衣は僕の背が届かないと思って……  つい衝動にかられ、パラパラと洋書を捲ってしまった。もう見ないと決めたのに。そうだ……せめて王子の名前だけでも知りたい。    この挿絵に描かれた白薔薇の騎士の名前は?  指で英文字をゆっくりなぞっていく。  あ……ここだ、見つけた!  彼の名は── mile(マイル)。

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