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愛しさと哀しみ 2

 更に一か月後。  例年より少し早めに梅雨に入った土曜日。  朝から雨が降り続き、湿度が高く、どこか不快な日だった。  白薔薇の屋敷には瑠衣がいなくなっただけで、表面上は何も変わっていない日常を僕は過ごしていた。    大学も休みだったので朝から雪也の勉強をみて、それから夕刻になって父が出かける旨を聞いていたので、部屋を訪ねてみた。 「お父さま、何時頃、ご出発ですか」 「あぁこんな日に本当は出かけたくないが、大事な商談だから仕方ない。箱根まで行ってくるよ」 「……遠いですね。今からなんて」 「仕事なので仕方がないよ」  近頃、父は仕事がとても忙しそうだ。僕はまだ未熟だから仕事の内部まで知ることはないが、きっと商売が繁盛しているのだろう。 「あら柊一、来てたのね」 「お母さま! 」  振り向くと母が立っていた。父だけかと思ったら母も隣で余所行きの服装に着替えていた。菫色の絹のワンピースが優美で、美しい母によく似合っていて、思わず目を細めてしまった。  すぐ傍にこうやって自慢の父と母が傍にいてくれる。だから僕はとても幸せだ。自分でも恵まれた環境で過ごしていると自覚している。 「悪いな。出かけるまでもう一仕事するから。時間が来たら呼んでくれ」 「はい」  父はそのまま執務室に入ってしまったので、母と二人きりで会話した。 「お母さまも、ご一緒なんですね」 「そうなのよ。パーティーも兼ねているそうで。本当はこんな雨の日は貴方たちとゆっくり読書でもして過ごしたいのに……」  確かに僕も母とそんな時間を持つのが好きだ。  この屋敷の二階にある大きな書庫には長いソファが置いてあり、そこに母と座り、よく本を読んでもらった。  雪也が生まれてからは、母が雪也に読んであげるのを、僕もそのソファに座りこっそりと耳を傾けていた。優しい母の声はまどろみを誘うものだったが。 「大変ですね、お戻りは? 今日も泊まられるのですか」 「今日は遅くなっても戻ってくるわ、明日は日曜日だもの。可愛い息子達とゆっくり沢山過ごしたいし」 「分かりました。お気をつけて」 「ねぇなんだか今日は、あなた達をふたりきりで置いていくのが心配よ。瑠衣はもういないし……雪也の担当の先生も替わったばかりだし」 「大丈夫ですよ。僕はもう大人です。何かあっても冷静に判断しますから」 「もう柊一……あなたって子は」  雪也もこの1年間入院もしていないし、症状も落ち着いている。  昔のように急に発作も起きないだろう。  そんな風に冷静に頭の中で考えていると、突然母の柔らかいオードトワレが、ふわっと近くに感じた。 「えっ……」  母が僕をふわっと抱きしめてくれていた。 「おっ……お母さま?」 「もうこの子ってば……あなたは早くに大人になり過ぎたわ。雪也が病弱だったから沢山我慢させて、親の都合を全部押し付けてしまって……」  確かに雪也が生まれてから……もう兄になったのだからと、自分を押さえ込むことが多かった。でもそれは違う。だって雪也は本当に可愛くて、僕自ら守ってあげたくなったのだ。押し付けられたものなんかじゃない。 「そんなことないです。僕は雪也のことが本当に大切で」 「分かっているわ。義務感とかではなく、あなたが心から弟を愛しているのを知っている。でもあなた自身のこともちゃんと愛してね」 「……はい」 「お土産を買ってくるわ。あなたが好きだった箱根の寄木細工なんてどうかしら。何かリクエストはある?」 「じゃあ……昔持っていた秘密箱が欲しいです。あれは雪也が欲しがったのであげてしまったから」 「あぁあれね、分かったわ。柊一だけの秘密箱を買ってくるわね」 「楽しみです」  まるで幼い子供みたいに土産を強請ってしまったな。  こんな風に母から接してもらうのは久しぶりで、嬉しく優しい気持ちで満たされた。  それから1時間後、僕と雪也は出かけて行く両親の車が見えなくなるまで、玄関で、ずっと見送った。

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