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愛しいということ 6
久しぶりの現場復帰だ。
診察室のボードで今日の予約患者名簿を確認すると『冬郷雪也《とうごう ゆきや》』という名前がちゃんとあったので、ほっとした。
よかった。俺の復帰当日に診療予約を入れてくれていたのか。俺も君に久しぶりに会うのが楽しみだよ。瑠衣からもくれぐれもと頼まれているしな。
そこからは引継ぎ事項や1年間の間に入れ替わったメンバーと挨拶をしたりと怒涛の時間を過ごした。診察もその合間にひっきりなしだ。大学病院の診察が殺人的に忙しいのも変わっていなかった。
「先生、次は特別室の患者様です。カルテは部屋に用意してありますので」
「分かった」
そう言われたので反射的に何も考えずに、久しぶりに特別室に向かった。
ふぅ……やっと一息つけるな。
俺もこの特別室で雪也くんを診察する時間が好きだった。
この欠けた床のタイルも、何もかも1年前と何も変わってない。なのに特別室を開けて中に入って、すぐに違和感を覚えた。
まず傍に立っている人が雪也くんの母親ではなかった。病院に来るには化粧が濃すぎるし、香水の匂いがプンプンする女性だった。雪也くんの親戚かと首を傾げてしまった。更に……背もたれの高い椅子に腰かけている患者を見て驚いた。
雪也くんではなかった。
そこにいたのは我儘そうな……見知らぬ中学生位の少女だった。
「先生早く娘のことを診て下さいよ」
「……」
「あーもうこんな所に連れてこられて、何なの。ちょっと心臓が痛いって言っただけなのにぃ……ママーこっちに来てぇ」
これはどういうことか?
過保護過ぎる母親にべったりな少女。
母親は大きな宝石のついた指で、少女の頬を撫でている。
「あなたねぇ、何ぼんやりしているの?こちらの病院は特別室があると聞いて選んだのよ。いいこと? お金は弾むから最善の治療をして頂戴!」
医師を医師とも思わぬ横柄な態度にカチンと来たが、なんとかやり過ごし、足早に病室を出た。そこで出くわした看護師を掴まえ、問いただした。
「おい!何でだよ。ここは冬郷家の特別室だろう? 雪也くんはどこだ?」
「……先生……そっそれは」
なぜだか哀し気な表情で目を逸らされてしまった。
雪也くんの予約は確かに入っていた。
では、どこにいるんだ?
君は今、どこに……
なんとなく嫌な予感、胸騒ぎがして廊下を突っ切って診察室に戻ろうとした時、廊下に置かれているベンチにポツンと不安げに座る雪也くんの姿を見つけた。
「雪也くん!」
「あ……海里先生!」
彼の笑顔は変わっていなかった。
穢れない雪のように純真な笑顔は健在だった。
「どうしてこんな所にいるんだ? 君のような人が座る場所じゃないよ。風邪でもひいたらどうするんだ?」
「……先生……僕はここでいいのです」
彼は寂し気に、首をゆっくり横に振った。
俺は彼の目線までしゃがみ込んで、彼の手に触れた。
よく手入れされていたはずの指先はカサついていた。
瑠衣がいないのは分かる……だがいつもやさしく寄り添っていた母親はどこだ? なんでこんな状況に甘んじているのか信じられない。
俺は彼を特別室の中でしか見たことがなかった。
とにかく明らかに様子が違っていた。よく見ると顔色も悪いし痩せてしまって、あんなに楽しみにしていた中学校の学生服の襟元がブカブカだった。制服も袖口が汚れて……
小公子のように薔薇色だった頬は、雪のような白色へと変わってしまっていた。雪也くんはそれでも、俺に向かって懸命に微笑んでくれた。
「ずっと海里先生に会いたかったです。先生……お帰りなさい」
「一体……どうしたんだ? 君に何があった?」
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