53 / 505

愛しいということ 12

 あの小さかった雪也が、僕に紅茶を入れてくれるなんて。  一口飲むと、懐かしい味と共に、懐かしい思い出が込み上げてきてしまった。 『柊一坊ちゃま、お紅茶です。今日はクラシックブレンドにしましたが、いかがですか』  あぁ瑠衣の声がする。お父様の穏やかな話声や優しいお母様の気配も、大勢の使用人たちの足音も、パーティーで食器のぶつかる音もカチャカチャと── 「兄さま? 大丈夫ですか」  過去に浸っていると、突然雪也の黒い大きな瞳に覗き込まれて、ドキっとしてしまった。 「あっうん、上手にいれられたね。とても美味しいよ」  そのままサラサラの髪の毛を撫でてあげると、雪也は子猫のように甘い笑顔を浮かべてくれた。 「兄さまに喜んでもらえて嬉しいです! 」 「じゃあ、またいれてくれるかな」 「もちろんです」  確かにこっくりとしたミルクティーの味は、疲れた体に染みた。  在学中に父の会社を継いだので、就職活動なんてしたこともなかった。会社を閉じた後……なんとか就職出来たのは、本当に小さな出版社だった。  出版業界なんて、それまで僕が学んできた帝王教育とかけ離れ……右も左も分からない状況が続いている。  編集長に怒鳴られ、取材先で門前払いされ、ひたすら頭を下げる日々。慣れない大衆居酒屋に付き合い、安いお酒を飲まされ……雨の日も外を走る日々だ。  僕が僕でなくなるような喪失感に苛まれていた所に、このミルクティーは特効薬だった。  僕に自尊心を思い出させてくれた。  そうだ。どんなに落ちぶれても、自尊心だけは忘れてはならない。  僕が僕であるために── 「そう言えば雪也、この紅茶一体どうしたんだい? もう家にはこんな上等なものはなかったはずだよ」 「病院の先生にいただきました。ほら僕の主治医の先生が戻られたので」 「……そう。なんだか申し訳ないね。でもとてもいい茶葉だ。瑠衣がいつも選んでくれたのと似ているな」 「瑠衣……元気でしょうか」 「うん……きっと英国で今頃幸せに暮らしているよ。そうだ、雪也……この状況を瑠衣に知らせては絶対に駄目だよ。彼に余計な心配をかけたくないからね」 「……そうなんですね。分かりました」 「来週にはお給料日だからお肉でも買ってこよう」 「わぁ……」  その晩、ベッドの中で無性に泣きたくなってしまった。  たぶんあのミルクティーのせいだ。  雪也の前では絶対に泣けない。もう泣かない。  本当にこの先僕だけでやっていけるのか。  お父様との約束を守れるのか……不安ばかりだ。  白薔薇の咲くこの洋館を維持すると同時に、雪也に手術を受けさせて、ちゃんと大人にする。  お父様との誓いが重たくて……たまに下ろしたくなってしまうなんて、僕は最低だ。そんな暗い心に……幸せな思い出は、真綿で首をしめてくるようだった。 「くっ……」  ずっと堪えていた涙が雫となり、一滴だけ、ぽたりと皺くちゃなシーツに落ちた。  一滴の涙。  あ……雪也が僕に必死に話してくれたことを思い出した。    『ゴールデンドリップ』なのか。  お紅茶は最後の一滴が一番美味しいと、雪也は言っていた。  雪也、ごめんな。  兄さまは本当はこんな弱い心を持っているんだ。    でも雪也が言ってくれたように、最後まで諦めないでいたい。  零してしまった一滴の涙に誓った。  もう弱音は吐かないと。

ともだちにシェアしよう!