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愛しいということ 12
あの小さかった雪也が、僕に紅茶を入れてくれるなんて。
一口飲むと、懐かしい味と共に、懐かしい思い出が込み上げてきてしまった。
『柊一坊ちゃま、お紅茶です。今日はクラシックブレンドにしましたが、いかがですか』
あぁ瑠衣の声がする。お父様の穏やかな話声や優しいお母様の気配も、大勢の使用人たちの足音も、パーティーで食器のぶつかる音もカチャカチャと──
「兄さま? 大丈夫ですか」
過去に浸っていると、突然雪也の黒い大きな瞳に覗き込まれて、ドキっとしてしまった。
「あっうん、上手にいれられたね。とても美味しいよ」
そのままサラサラの髪の毛を撫でてあげると、雪也は子猫のように甘い笑顔を浮かべてくれた。
「兄さまに喜んでもらえて嬉しいです! 」
「じゃあ、またいれてくれるかな」
「もちろんです」
確かにこっくりとしたミルクティーの味は、疲れた体に染みた。
在学中に父の会社を継いだので、就職活動なんてしたこともなかった。会社を閉じた後……なんとか就職出来たのは、本当に小さな出版社だった。
出版業界なんて、それまで僕が学んできた帝王教育とかけ離れ……右も左も分からない状況が続いている。
編集長に怒鳴られ、取材先で門前払いされ、ひたすら頭を下げる日々。慣れない大衆居酒屋に付き合い、安いお酒を飲まされ……雨の日も外を走る日々だ。
僕が僕でなくなるような喪失感に苛まれていた所に、このミルクティーは特効薬だった。
僕に自尊心を思い出させてくれた。
そうだ。どんなに落ちぶれても、自尊心だけは忘れてはならない。
僕が僕であるために──
「そう言えば雪也、この紅茶一体どうしたんだい? もう家にはこんな上等なものはなかったはずだよ」
「病院の先生にいただきました。ほら僕の主治医の先生が戻られたので」
「……そう。なんだか申し訳ないね。でもとてもいい茶葉だ。瑠衣がいつも選んでくれたのと似ているな」
「瑠衣……元気でしょうか」
「うん……きっと英国で今頃幸せに暮らしているよ。そうだ、雪也……この状況を瑠衣に知らせては絶対に駄目だよ。彼に余計な心配をかけたくないからね」
「……そうなんですね。分かりました」
「来週にはお給料日だからお肉でも買ってこよう」
「わぁ……」
その晩、ベッドの中で無性に泣きたくなってしまった。
たぶんあのミルクティーのせいだ。
雪也の前では絶対に泣けない。もう泣かない。
本当にこの先僕だけでやっていけるのか。
お父様との約束を守れるのか……不安ばかりだ。
白薔薇の咲くこの洋館を維持すると同時に、雪也に手術を受けさせて、ちゃんと大人にする。
お父様との誓いが重たくて……たまに下ろしたくなってしまうなんて、僕は最低だ。そんな暗い心に……幸せな思い出は、真綿で首をしめてくるようだった。
「くっ……」
ずっと堪えていた涙が雫となり、一滴だけ、ぽたりと皺くちゃなシーツに落ちた。
一滴の涙。
あ……雪也が僕に必死に話してくれたことを思い出した。
『ゴールデンドリップ』なのか。
お紅茶は最後の一滴が一番美味しいと、雪也は言っていた。
雪也、ごめんな。
兄さまは本当はこんな弱い心を持っているんだ。
でも雪也が言ってくれたように、最後まで諦めないでいたい。
零してしまった一滴の涙に誓った。
もう弱音は吐かないと。
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