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愛しいということ 20

 可愛い手が、僕の手を握っている。  すぐに分かるよ。  僕の可愛い弟の雪也の手だ。  あの日……まだ産まれたばかりの赤ん坊をお母様が見せてくれたので、その小さな手にそっと触れてみた。そこにはちゃんと爪が生えていて驚き、そして微力だが確かにキュッと握り返してくれたやわらかな温もりを忘れられない。  僕を犠牲にしてでも守りたい一番大切なものなんだよ。君は── 「兄さま、そろそろ……」 「ん……?」 「あ、目覚めたのですね」 「えっ」    一瞬状況が掴めなかった。  ぼんやりと辺りをぐるっと見渡すと白い天井と壁、白いカーテン、白いベッド……どうやら僕が寝ているのは、病院の診察室のようだった。 「さっき待合室で倒れてしまって……それでここまで運んで休ませてもらっていたのですよ。熱がとても高かったので心配しました」 「何だって? 」  あの白馬に跨って小路を歩む夢は……夢じゃなかったのか。  じゃあ僕が確かに掴んだマントは、何だったのか。 「そうだったのか」 「もう熱は下がったみたいで良かったです」  確かにすっきりしていた。深く眠ったお陰なのか。  朝、自分でも躰が怠く熱が出そうなのは分かっていたが、休んでいる暇はなかった。 「ごめんよ。心配かけて」 「大丈夫です。その……先生がいてくれたので」 「先生って……雪也の主治医の?」  そうえいば、僕はまともに顔を見たことがない。  一体どんな人だろう? 「そうです。後でお昼ご飯を持って来て下さると言っていました」 「え……ということは今、何時?」 「もう13時過ぎですよ」 「なんだって!まずい」  どうしよう!今日は直接取材に行かないといけないのに、今からでは間に合わない。いや、遅れてでも行くべきだろう。 「ごめん。雪也、兄さまはすぐに仕事に行かないと」 「えっでも……もうすぐ先生が。せめてお昼を食べてから」 「駄目なんだ。もう遅刻だ! 先生にはお礼を伝えてくれ」  慌ててコートを着て、僕は診察室を飛び出した。  助けてもらったお礼も言えずに……礼儀に欠けるとは理解していても、今の僕にはその余裕はなかった。  本当にギリギリで仕事に生活に現実に振り回されている!  夢のような世界は、もう存在しない。 「兄さま……待って!」  雪也の頭をそっと撫で「ごめんね」と謝るしかなかった。 ****  このドアを開けたら彼は起きているだろうか。  今度こそ俺を見てくれるだろうか。  そんな期待に満ちた心で、診察室をノックした。 「入るよ」 「先生……」  寂しそうな雪也くんの声が返ってきた。  嫌な予感通り……診療室のベッドに彼はもういなかった。 「お兄さんは?」 「すみません。止めたのですが、仕事に行ってしまいました」  雪也くんが申し訳なさそうに頭を下げてくる。  はぁ……今日も見てくれないのか。  この毛布も食事も空振りか。  もどかしいな。こんなすれ違い── 「やれやれ……もう熱は下がっていた?」 「はい下がってはいました。あの、先生、本当にごめんなさい」 「いいんだよ。お兄さんは大変だな」 「出版社の仕事は時間も不規則で……」 「まぁいい。ほら雪也くん、さぁこれを飲むといい。暖かいスープだよ」 「でも……これは兄さまに」 「いいから」  そうだ。この勿忘草色の毛布も、雪也くんに渡そう。 「これも使うといい、あげるよ」 「え? だってこれ兄さまに先生が買われたものですよね」 「う……まぁ」  おっと、結構するどいな。 「あの……これは病院に来た時、貸していただけると嬉しいです。あそこのベンチは寒くって、いつも兄さまに何か掛けてあげたいと思っていましたので」  なんて兄想いなんだ。 「先生、兄さまのこと気にかけて下さってありがとうございます。兄に味方ができたようで嬉しいです」 「そ、そうか」  雪也くんは俺が考えていたよりも、ずっと周りを見ているようだ。  そして空気を読める……聡い子だった。

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