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誰か僕を 14

 土曜の夜……兄さまは深刻な表情で鏡の前に長い時間立ち、それから深いため息を二度ばかり吐いて、クローゼットの中から薄い鼠色の一張羅の三つ揃えスーツを選んだ。  僕はその様子をそっと見つめていた。  あ……そのスーツは兄さまが二十歳《ハタチ》のお祝いで誂えたものだ。  いつものようにオーダーメイド職人がやって来て、恭しく兄さまの体を採寸していた。凛とした佇まいの兄さんの姿が、カッコよいのと同時に羨ましくて、まだ10歳だった僕は、ソファに座って母とその様子をじっと見ていたのを覚えている。 ………… 「いいなぁ」 「まぁ雪也にもお揃いで作りましょうか」 「うーん、でも窮屈そうだから、まだいらない」 「まぁ……うふふ。ではあなたも二十歳《ハタチ》になったら、お母さまが選んであげるわね」 「うん10年後だね。その頃……お母さまはどうしているかな」 「そうねぇもしかしたら、もうおばあちゃまになっているかもしれないわ」 「どうして?」 「だって柊一が結婚しているかもしれないでしょう。そうしたら赤ちゃんが生まれて、おばあちゃまになれるの」 「ふぅん……兄さまが結婚しないとなれないの?」 「いいえ。あなたでもいいのよ。雪也がその位の歳になるのが今から楽しみよ」 「うん。僕はお父さんになるよ。きっと」 「ふふ、あなたの未来が楽しみよ」 「お母さま、楽しみにしていてくださいね」  ……  懐かしい会話。ほんの数年前のことなのに、遠い昔のことのようだ。 「行ってくるよ」  それから玄関で兄さまをいつも通り見送るが、さっきから変な胸騒ぎがして不安だ。 「兄さま今日はどこへお出かけになるの? 遅くなりますか」 「大丈夫だよ。そんなに心配しないで」 「でも……」  兄さまは少し寂しそうに笑い、僕の頭を優しく撫でてくれた。こんな時……僕は兄さまから見たらいつまで経っても小さな子供なんだと、少し寂しくも不満にもなる。 「雪也、今日はきっと……とても遅くなるから先に眠っていいよ」 「そんなに? あのお帰りは何時頃ですか。ちゃんと戻って来て下さいね」 「そうだね、明日の朝には……きっと帰るから心配しないで」 「朝まで?」 「……ごめん。もう時間だ。行くよ」  兄さまはどこか諦めたような表情を浮かべていた。  そんなに遅くまで帰ってこなかった事など、一度もないのに。  一体何が……ますます心配が募ってしまう。    出かける直前に兄さまがこの前の招待状を机の引き出しから取り出し、鞄に入れたのは知っている。  やっぱり……何かよくないパーティーかもしれない。    僕の家にお金がなくなってしまったことは理解している。  使用人は去り、お父様の会社はとっくに整理した。家も掃除が行き届かなくなり蜘蛛の巣だらけだ。兄さまが朝から晩まで出版社で働いてくれているから、食べていけるのだということも……    今の僕には何も出来ない……  でもひとつだけ兄さまには秘密で出来ることがある。  それは僕の主治医の海里先生に電話すること!  兄さまの姿が見えなくなったのを確認してから、慌てて電話をかけた。 「もしもし、先生っ」 「雪也くん、どうした? そんなに慌てて……まさか発作か!」  大人な先生の声に、一気に気が緩む。 「あっそうではなくて……兄さまのことで」 「何? お兄さんに何かあったのか」    兄の名前を出した途端、先生の声に緊張が走った。 「その……まだよく分からないんです。でも変な招待状を持ち帰ってから様子が変で、さっき一張羅のスーツを着て、覚悟の上のような表情のまま出かけてしまったのが怖くて」 「なんだって……それはどんな招待状だった? 中身を見たのか。差し出し人は誰だった? 君が知っていることを全部話してくれ!」 「あの……見てはいけないと思ったんですが、どうしても心配で。勝手に盗み見をしたことを怒りませんか」 「怒るはずない! 大事なことだ! さぁ早く話して」  

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