88 / 505

光 2

「大丈夫か。少しは落ち着いた? さぁこれを使って」 「……すみません」  温かいタオルを差し出されたので、僕は急いで彼に背を向け、見知らぬ男の唾液が残って気色悪い胸元から首筋を、何度も何度も拭いた。  気まずい時間だったが、汚れを落とせて、ホッとした。   「このスーツ、大事なものだったんだね」 「……あっ、はい」 「もしよかったら綺麗に修理してもらえるところを知っているよ」 「いえ、もういいのです……僕の浅はかな行動のせいですから。それより助けて下さって、服までありがとうございました。あの、もう帰ります」 「そんな風に言うな……よかったら上のBARに飲みに行かないか。そのままでは興奮して帰れないだろう。少しリラックスした方がいいよ」 「……あ、はい」  そんな気分ではなかったが誘われるがままに、ホテルの最上階にあるクラシカルなBARにやって来てしまった。確かにこんな興奮した状態では、とても雪也のもとに戻れないと思ったし、頭を冷やしたいとも…… 「どうぞ。もしかしてあまり飲めない?」 「ええ、実は」  彼に助けられたことが、少しだけ後ろめたかった。  それに助けてくれた真意がまだ分からなくて……  まさかとは思うが、彼もさっきの男と同じ目的では……いやこの人は違う。そう思うのに、助けてくれた人すらも疑ってしまうなんて……今の僕は何もかも懐疑的になりすぎている。  もう、最低だ。  一番悪いのは、僕自身なのに。 「……そんな風に自分を責めなくていい」 「え……」  僕が欲しかった言葉を、彼はくれた。 「大丈夫だよ。君は無事だった」  優しく励まされ……その場で泣いてしまいそうになる。    最初はただの上流階級のパーティーだと思ったが、暗黙の了解で消えていく男二人を何組か見届け……男同士の社交場を兼ねていることを理解した。  消えた先に何が待っているものかは、漠然とだが……理解していた。  出版社の平社員として世間の荒波に揉まれ、嫌でもそういう世界の存在を知ってしまったのだ。  僕は僕自身の意思で……敢えて気付かないふりをして、会場内を歩いたのだ。まるで声を掛けられるのを待つかの如く。  あぁ……恥ずかしい!   僕はなんてことを……自己嫌悪に陥ってしまうよ。  本当に、危なかった。  この人が助けてくれなかったら、もう少しで自分の身を自分で堕とすところだった。 「おいおい、参ったな。そんな顔するなんて。取って食いやしないよ」 「あなたは、どうして……」 「実は……俺はこのホテルの息子なんだよ。表向きは健全でも、そこに紛れて如何わしいことをしている団体があると聞いて、潜り込んで調べていたってわけだ」 「あ……そういう事だったのですか」  拍子抜けした。  仕事で助けてくれただけなのかと思うと、少し寂しい気持ちになった。  何故こんな気持ちに? 「でもね……君のことは、ずっと見ていたよ」  心臓が今度は……跳ねる。 「なぜ……ですか」 「……好みだった。掃き溜めに鶴のような清廉潔白な姿に惚れたよ」  彼の手が僕の手に重なれば、ストレートな言葉と手の感触に、胸がドクンっと一気に高鳴った。さっきあの中年の男性に触れられた時は、おぞましい気持ちで一杯だったのに、この人は違う。  一体……何故だろう。 「ぼっ僕はそういうつもりでは……」 「ふっ君のそういう所もいいね。さぁもう今日は家に帰った方がいい。君は自分の魅力に無防備すぎるよ。さてと……どうやら、ここにも下のパーティーから流れてきた客がいるようだな。邪な視線ばかりで居心地が悪いだろう」  森宮さんは、どこまでも大人で紳士的だった。  華やかな容姿のせいか、第一印象は浮ついた人間かもと警戒してしまったのが恥ずかしい程に。 「家まで送らせてくれないか」 「……ありがとうございます」  促され席を立った。  背の高い彼は僕を隠すように、すっと前に立って歩いてくれた。  もしかして……守られているのか。  居心地よい、さりげない心遣いが、傷ついた僕の身にじんと沁みた。  以前、彼と出逢ったような気がする。  それはいつだったのか。  

ともだちにシェアしよう!