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第2部 淡い恋が生まれる 1

 屋上でのひと騒動の後、雪也を病室まで送り届けた。  雪也も疲れが出たのだろう、あっという間に深い眠りに落ちてしまった。  そして今……僕は森宮さんに誘われるがままに、彼の診察室にお邪魔している。もう夜遅く、誰もいない診察室。  そこには簡易ベッドが置いてあり、腰かけるように指示された。  白衣姿の森宮さんに言われたら、断れない。  しかしまさかホテルで僕の危機を救ってくれた人が、雪也の主治医の先生だなんて、まだ信じられない。  僕たちはもっと前に出会っていたのか。  本当にここ数年周りが見えていなかったことが悔やまれるよ。  じっと慣れない場所で森宮さんを待っていると、彼が温かい湯気の立つマグカップを持って戻って来た。   「身体が冷えただろう」 「あ……はい」 「これを飲んで。少し落ち着こう」  熱いマグカップを受け取ったが、まだ手が震えていた。  あまりの急展開に僕の心臓がバクバク音を立てているのが分かる。これでは僕の方が過呼吸になりそうだ。展開が早すぎて頭の中がパンクしそうだ。  マグカップの中身は温かいミルクティーだった。口にそっと含むと甘さ加減に懐かしさが込み上げてきた。この紅茶の味には覚えがあった。雪也が入れてくれた味? いやそれよりも瑠衣が入れてくれた味とよく似ている。何故だろう。  ミルクティーの甘さに誘われるように、ほろりと涙が零れてしまった。 「あぁ……ホッとしたんだね」  隣に座った森宮さんが、僕の心に寄り添うように囁いてくれたので、またほろりと涙が零れてしまう。  ずっと歯を食いしばって生きてきた。だからこんな風に泣くつもりはなかったのに……今日一日に起きた怒涛の出来事が走馬灯のように思い出され、震えてしまった。  ホテルで力づくで押し倒された恐怖。  暴力的な言葉を浴び、蔑まれた悔しさ。  不気味なおぞましい感覚が身体を這い巡り……肉体的な絶望を味わった。  助けられたのもつかの間、雪也の発作で再び心臓が潰れそうになった。  そして深い諦めにより、あろうことか、自ら死を望んでしまった。しかも雪也を道連れにするなんて。  何故……あんなことをしてしまったのか。  そこからの起死回生。  僕が見つけた希望は、幾千もの星の願いを背負って、突然現れた。 『生きろ! 生きてくれ! もう……お前は自由に生きていい』  あの瞬間……お父様の声が聞こえたようだった。  もう一度じっと森宮さんを見つめた。    この人だ。  この人が僕の希望── 「柊一……」  優しく名前を呼ばれた。 「はい」 「さっき俺が言ったこと覚えている?」 「もちろん覚えています」 「よかった」  彼は嬉しそうに微笑み、指先でやさしく涙を拭き取ってくれた。  そのぬくもりにまた、はらはらと涙が散ってしまった。  どうしよう、止まらない。 「あぁもう泣くな」 「ですが……うっう」  森宮さんが遠慮がちに僕の肩を抱いてくれ、頼もしいと思った。 「君はもうひとりじゃないんだよ。さぁこれをかけて」    膝にかけてもらったのは、あの日の……勿忘草色のブランケットだった。 「これ……以前も……」 「うん」 「ありがとうございます。すごく好きな色でした」 「君によく似合うよ」 「あっはい」  こんな風に他人から憧れにも似た熱い眼差しを注がれるなんて、慣れなくてどうしたらいいのか分からない。  思わず恥ずかしくて俯くと、視線の先に森宮さんの白衣が見えた。  僕はそっと手を伸ばし、彼の白衣の裾に触れた。この白衣がさっき屋上で風にはためいて、騎士のマントのように見えたのだ。  彼は……まるであのおとぎ話のように、僕を救いに来てくれた人だった。 「柊一、改めて言うよ。俺と……真剣に付き合って欲しい」  もう一度彼から届くメッセージに、夢ではなかったのだと噛みしめる。  コクンと頷くのが精一杯だったが、僕の心はあなたの方を向いていた。  

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