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甘酸っぱい想い 3

   先ほど繋いだ手の感触が忘れられなくて、僕の方から森宮さんの手に触れてみたくなった。  彼の手を握りしめ、じっと見つめた。  この手が助けてくれ、守ってくれたのだと思うと、どこまでも愛おしかった。 「柊一から触れてくれるなんて、嬉しいよ」 「あの、中へどうぞ」  ギィィ……  執事も使用人も、誰もいなくなった屋敷の扉は蝶番が錆び、重苦しい鈍い音を立てる。いつも不安でしかなかった重厚な音すらも、今は厳かに聞こえてくるのが不思議だ。  僕が開いたのは確かに屋敷の扉のはずなのに、瑠衣が読んでくれたおとぎ話の頁をめくるように、心が高揚していた。  進むのか──物語が今。 『次は、次はどうなるの?』  幼い僕の声が聴こえ……幼い僕が通り過ぎていく。 『柊一さま、あなたの人生はあなたが主人公ですよ』 『瑠衣、それはどういう意味?』 『どうかこの手で幸せを掴んでください。英国から祈っています』  瑠衣と別れ際に交わした握手……瑠衣の言葉が効力を発する。  僕がこの手に掴みたいのは、森宮さんの心だ!  瑠衣が知ったら驚くかな。  いや、彼になら分かってもらえるだろうか。今はまだ連絡を取る段階ではないが、いつか瑠衣にも会いたい。そのためには僕自身が幸せをしっかり掴む努力をしないと。 「どうぞ、中は暗いので気をつけて下さい」 「うん、お邪魔するよ」  出迎える人が誰もおらず、灯りもつかない家なのに、今日は何かが決定的に違った。  この心臓のドキドキした音も、繋いだ手から浸透してくるような温もりも、何もかも新鮮だった。 「あの……まずは何か飲みますか。この前はお茶をいれる暇もなかったので」 「あぁ温かい紅茶がいいな。君がいれてくれるの?」 「あ、はい。でも僕はティーバックでしか……弟がいたら上手にいれられるのですが」 「ふっ……なら俺がいれてあげるよ」 「でもお客様にそんな」 「ん? 俺はただの客なのか」 「あっその……」  そんな熱い瞳で見つめられてしまうと、どう答えたらいいのか分からなくなる。 「……ごっ、ごめんなさい」  不慣れな僕から咄嗟に飛び出たのは謝罪の言葉だった。  するとその言葉に、彼の方が驚いた様子だった。 「何故謝る? まさか俺と付き合うのを撤回するつもりじゃ」 「あっ……違うんです。その僕は……」 「どういう意味?」 「その……もうご存じだと思いますが……その、誰ともお付き合いをした経験がないんです。だからこんな時に、気の利いた言葉一つ言えないのが情けなくて」  もうきっと察しているはずだ。  でも……恥を忍んで、侘びてしまった。 「柊一……」 「こんな不慣れな僕が、あなたと付き合っていいのか、実は自信が持てなくて」 「はぁ……こっちへおいで」  彼が再び優しく抱きしめてくれた。  彼にこうやって抱きしめられるのが、僕は好きらしい。 「そんな心配は不要だよ。大丈夫だ」  もう僕のことを抱きしめてくれる人なんていないと思ったのに、父のように、母のように優しく労わるように……森宮さんが抱きしめてくれた。 「森宮さん……僕、あなたのことが……」 「うん?」  今度は愛しい恋人のように深く強く抱きしめてもらい、胸の奥がじんとなった。 「……好きです」  あぁよかった。とうとう最後まで言えた。 「嬉しいよ。やっと言ってくれたね」  恥かしい……でも僕の気持ちを素直に伝えることが出来た。 「あなたを、もっと知りたいです」 「俺もだ」  そうか、そんなに難しく考えることはないのか。  森宮さんに抱きしめられている身体から力を抜いて、コトンっと彼の胸にもたれてみた。  耳を澄ませば、トクトクと規則正しい鼓動が聴こえ、頬からは彼のぬくもりを感じた。  一人ではないと感じられる安心感、もっと知りたいという欲求。  いろんな感情が芽生える中、僕たちは幸せに向かって歩み出す。  今日がその日なのだ。  

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