117 / 505
甘酸っぱい想い 8
「ふぅ……参ったな」
恥かしくて恥ずかしくて。
これ以上森宮さんの近くにいられなくて、とうとう廊下に飛び出してしまった。だっ……だって意識しない方が、おかしいだろう!
森宮さんの筋骨隆々たる身体は、どこまでも逞しかった。素肌に浮かぶ水滴が輝いて見えた。白衣姿の時はそこまで思わなかったが、筋肉が発達し骨格がしっかりしているのだ。
彼が何か話す度に盛り上がる裸の胸元に釘付けだなんて、絶対に知られたくない!
僕だって彼と同じ男なのに、もう雲泥の差だ。
学生時代に運動してもちっとも逞しくならない躰にため息をつくと、母が申し訳なさそうな顔をしていたな。
(まぁ……柊一は顔だけでなく、体躯まで私に似てしまったようね。お父様に似たらもっと逞しかったのに、ごめんなさいね)
(お母様、何を言うかと思ったら……そんなことはないですよ。でもお父様には憧れます)
それから病院の屋上で僕と雪也を手摺から引き上げてくれた彼の逞しい腕力を思い出し、ますます躰が火照ってしまった。
僕はあの時、地の底から引きずりあげてもらった。
一度捨てようと思った世界は、舞い戻ってみると、今までと勝手が違った。今まで使っていなかった感情が動き出して忙しい。
「痛い……」
ぶつけた額ではなく胸の奥がドクドクして痛い程だったので、壁にもたれて息を整えた。
両親が亡くなってから、ずっと目前の現実を消化するので精一杯だったのに……こんな風に立ち止まり、心を揺らすことなんてなかったのに。
恋をするって、こういことなのか。
心がゆれゆら揺れて……熱を帯び……吐く息すらも色づくような感覚、これを『ときめく』と?
やがて……廊下に森宮さんの足音が聞こえた。
無事に風呂を終えたのか。
客間の場所、分かるかな。
逃げ込んだ居間の扉からそっと覗くと……丁度彼の後ろ姿が見えた。
「えっ」
思わず目をゴシゴシ擦ってしまった。
真っ白なバスローブを翻し、スタスタと歩く姿勢のよい長身の後ろ姿。
それはいつか見た光景だ。
そうか……あれは雪也が初めての発作を起こした日だ。
僕はまだ小さく瑠衣が延命処置しているうちに怖くなり、耳を塞いで部屋の片隅に蹲っていた。
『では病院に行ってきます。柊一様、後はよろしくお願いします、今宵はあなたがこの家のご当主代理です』
『待って! 瑠衣』
(怖い! 一人は怖い)
思わず甘えた言葉を叫びそうになったが、慌てて呑み込み、廊下に出ると、白衣を翻す背の高い男性の後ろ姿が目に入った。その長い白衣がまるで騎士のマントのように見えた。
あの時の白衣の男性に、森宮さんはそっくりだ。
えっまさか。
あっ……そうなのか……あぁだから、雪也の主治医に?
気が付くと僕は廊下を走り、森宮さんのバスローブの端を掴んで呼びとめていた。
「待ってください! あのっ森宮さんはあの日ここに駆けつけてくれたお医者様ですか」
「ふっ、ようやく気が付いてくれたのか。君は案外ぼんやりしているな」
「……白いマントの騎士のようでした」
「え?」
「あっいえ、何でもないです」
恥かしい。
いい歳をして夢物語を語るなんて──
だがやっぱり僕の目の前にバスローブ姿で立っている森宮さんは、騎士のように頼もしく逞しく、同時にどこかの国の王子のように気品で溢れていた。
本当にこんなに素晴らしい人が僕のことを?
なんだか猛烈に恥ずかしくなり、また俯いてしまった。
「また目を逸らす」
「……すっ、すみません」
「何故? 俺のことをちゃんと見て欲しいのに」
「ですが、」
「見てくれ」
「……はい」
「まだ実感、湧かない? 君の瞳の中に俺はいるよ。俺の瞳にも君しか映していないのに」
森宮さんは、夜空に瞬く星のよう……
古来から航海の目印だった、北極星《ポラリス》のような人だ。
ともだちにシェアしよう!