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甘酸っぱい想い 10

「結局ほとんど眠れなかったな」  怖くて寂しくて震える夜なら幾夜もあったが、心が熱を帯びて寝付けなくなるなんて知らなかった。だが寝不足のはずなのに、気持ちは高揚していた。  よかった。この時間なら間に合うな。  昨日思いついた森宮さんにモーニングティーをお届けすること、ちゃんと実行出来そうで、童心に返ったようにワクワクした。  新しいことを学ぶ時、人は誰でもこんな気持ちになるのでは?  久しぶりに明るく前向きな気持ちで朝を迎えていた。 「そうだ、確か、ここに」  書斎の机から分厚いノートを取り出した。これは屋敷を去った瑠衣から託されたものだ。 …… 『柊一様に、これを置いて行きます』 『これは?』  古びたノートは何度も何度も捲ったようで、表紙が傷んでいた。 『英国の執事養成学校で学んだ時に使ったものですよ』 『瑠衣が?』 『柊一様は執事になるわけではありませんが、執事の仕事を理解しておくと、家全体が見通せますので……それに、後任の執事が来ないそうなので』  そうだった。これからは僕が瑠衣に代わって、この屋敷を切り盛りしていかないといけない。お父様とお約束したことだ。 『分かった。具体的にはどんなことを? 』 『そうですね……給仕の仕方や衣服の整え方。食器類や飲み物の管理に、火の元の管理、戸締りなど、家全体の管理を学べますよ』 『そうなんだね。ふぅなんだか花嫁修業のようだね、あっごめんなさい。変な言い方をして』 『いえ、柊一様らしい、柔軟な捉え方ですね。たとえばお紅茶の入れ方などは、将来、ご結婚されたら……奥方様に入れて差し上げたら驚かれるでしょう』 『瑠衣っ、僕にはまだ早いよ』  急にそんなことを言われて、恥ずかしくなってしまった。 『……道半ばでここを去ることをお許しください。柊一様がいつかご結婚されるのを見届けたかったです。せめて雪也様が手術を受けるまではいるべきなのに……』 『何を言うんだ。英国行きは瑠衣にとっていい話だろう。遠慮しないでくれ』 ……  瑠衣とのやりとりを思い出すと、恥ずかしくなってしまった。  いつか好きな人にいれてあげたいと何となく思っていたのが、こんなにも早く実現するなんて。  ただ、その相手は結婚相手の女性ではない。  僕を好きだと言ってくれ、僕が好きになった人は男性だった。でも、それがとても自然でとても嬉しい。  今すぐ瑠衣に話したいような秘密にしたいような、ふわふわとした気持ちになってくる。  ノートには英国式紅茶の入れ方という題目で、懇切丁寧に書かれていた。 「なるほど、瑠衣はいつもこうやって入れていたのか」  ノート片手に厨房に入り忠実に再現し、まず味見をしてみる。 「わっ! ちゃんと瑠衣の味になった。あれ、でもこれって森宮さんの味とも似ているな」  二人はどことなく似ている。  雰囲気とかそういのじゃなく、もっと深い部分が……  今度は森宮さんのために心に込めて入れた。  瑠衣はいつもポットに入れて寝室まで運んできてくれた。その記憶を頼りに、忠実にモーニングティーセットを再現していく。  瑠衣はいつもこんな風に準備してくれていたのか。してもらうだけでは、永遠に気が付けないことだった。  瑠衣……あれから僕を取り巻く境遇は、大きく変わってしまったよ。歯を食いしばって一人で耐えて生きていくしかないと思っていたが、そうではなかった。  誰かと分かち合うだけで、こんなに心が軽くなるなんて、知らなかった。  瑠衣も今は恋人と分かち合っているのか。  幸せに暮らしているのか。    英国の空に向かって、僕の想いを託そう。  僕も瑠衣みたいに真っすぐに進んでいくと。    目を閉じると瑠衣が愛しい人を道しるべに、真っすぐ歩んで行く背中が見えた。  瑠衣、僕も見つけたよ……  僕だけの北極星《ポラリス》を。  トレーに紅茶のポットとカップを載せ、慎重な足取りで森宮さんの元へ向かった。  もう起きているかな……  それともまだ眠っている?  どちらでもいい。  早くあなたの顔が見たい。

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