122 / 505
甘酸っぱい想い 13
「森宮先生!」
「何?」
「今日は随分とご機嫌なんですね」
「ん? そうか」
「さっきから顔に出ていますよ」
特別室相手の営業スマイルや、患者へのポーカーフェイスなら得意だが、この零れ落ちる笑みの正体を知ったら、看護師たちはきっと驚くだろう。
昨夜から今朝にかけて……柊一と一つ屋根の下で密に過ごした時間が、素晴らし過ぎた。まぁ厳密に言うと何も起きていないが、何かがまた一歩進展したような高揚感をひしひしと感じている。
柊一、君のことを知れば知る程、好きになる。
人はこうやって恋に落ちて、はまっていくのか。
だが君は……もしかしたら俺に知られる程、恋をするのが怖くなっているのかもしれない。あまりに不慣な自分を曝け出すのが……
そんな控え目で、恋に臆病な所も、とてもいいね。
まだ何色にも染まっていない君が好きだ。
そう伝えるには、どうしたらいいのか。
恋に手引書があればいいのに。
真剣な恋に不慣れな俺には、どうにも分からないことばかりだ。
「あら? 今度は悩まし気な顔ですね。もしかして恋煩いですか」
「無駄口を叩くな。診察を開始するぞ」
「はーい、では今日のご予約の患者様のカルテです」
「うん……1番、診察室に冬郷 雪也くん、どうぞ」
雪也くんが3歳の時から主治医をしているというのに、10年かかって柊一とようやく対面とは感慨深いな。
雪也くんがにこやかな笑みを浮かべて入って来る。相変わらず人懐っこく可愛い子だ。良家の子息特有のゆとりあるおおらかな優しさを持っている。
そしてその背後に、少し緊張した面持ちの柊一が立っていた。
「海里先生! 改めておはようございます」
「あぁおはよう」
「……あの、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
俺の前で丁寧なお辞儀をする柊一。
残念──もうすっかり兄の顔に戻ってしまったな。
一見少し冷たそうにも見えるツンと澄ました表情の裏に、俺だけに見せてくれたあの可愛い君が忘れられないよ。
だが目の前の楚々とした好青年もいい。
結局どんな柊一でも、俺は好きなんだと実感する。それは柊一という人間を好きになったのだから、当たり前なのか。
「やぁ、やっと診察室に入ってくれたね」
すると診察室付きの看護師の目の色が変わった。
「まぁ! お兄さんのお顔……雪也くんにそっくりですね。こんなに美青年のお兄様がいて、雪也くんの将来も安泰ね……それにしても、本当に本当に素敵なお方……」
「コホンっ」
まったくいつもはこんな世間話をしない堅物の看護師まで柊一に色目を?
油断できないな。
「……君は少し向こうに下がって」
おいおい今は診察中だ、しっかりしろ。
自分自身が嫉妬していることに苦笑してしまった。
柊一は俺の脳内がこんなになっているとは露知らず、どこまでも真剣な表情だったので、俺も一旦リセットし、そこからは医師としてしっかり対応した。
雪也くんの今後の治療計画と、秋に手術をする予定を細かく伝えると、二人は覚悟を決めたように頷いた。
資金繰りはこれからだが、きっと上手くいく。
兄貴も乗り気だったので、次の週末にはレストランへの契約も詰めよう。
それから柊一には、そっと手紙を渡した。
この俺が古風なことをと思うが、いつも丁寧な手紙を送ってくれる君に合わせて……次の約束《Promise》を──
****
「兄さま、僕、もう退院していいなんて本当ですか」
「うん、先生の診断だからね」
「あれ? そういえば兄さま、今日は会社に行かなくていいのですか」
「うん、実はもう辞めようと思って」
「えっそんな。何かあったのですか」
「大丈夫だよ。森宮さんが付いていてくれるから」
「兄さま……よかったですね。本当に」
今日からは、もう会社に行かない。
辞表届は郵送で送るように、森宮さんにキツク言われた。とにかくあそこには近づくなと。
少し迷ったが、彼の言う通りにしてみようと思う。
僕は森宮さんを信じている。何故なら……彼は僕の北極星だから。
「兄さま、その恋文を読まなくていいのですか」
「え?」
「さっき、先生からもらっていましたよねぇ」
「雪也は、もうっ」
「デートならお気遣いなく行ってきてくださいね。僕に遠慮しないで」
先ほど手渡された封筒には何が……
握りしめていた手に熱が籠っていた。
まるで僕の心のように──
あなたを想うだけで、焦れたように心も躰も熱くなる。
ともだちにシェアしよう!