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甘酸っぱい想い 15

「兄さまが日中、家にいらしてくださるなんて、すごく、すごく嬉しいです」  夕食の支度をしていると、昼寝から起きて来た雪也がとても嬉しそうだった。  僕はずっと……この子をひとりぼっちにさせていた。  出版社の仕事は想像よりもハードで、いつも帰宅が遅かった。  小さな雪也が、こんなに広い屋敷で夜まで一人で過ごすのは、さぞかし心許なかったろう。今なら分かる……雪也がいつも窓から覗いて、僕の帰りを待ち侘びていた気持ちが。 「雪也、これからはもっと長い時間一緒にいられるよ。手術に向けて、しっかり体力をつけないとね。それで相談があって」 「何ですか」  雪也に、この屋敷の一部を森宮さんのご実家のホテルグループに貸し出して、レストランにする予定だと説明すると、喜んでくれた。 「兄さま。とても素敵なお話ですね。ホテルオーヤマの系列なんてすばらしいです。それにレストランになったら……」  恥かしそうにモゴモゴしている。 「何だい? 言ってごらん」 「いえ、その、いろんな人が来たら、この家もまた活気が出ていいですね。それと厨房から美味しそうな匂いがするのは嬉しいです」 「うん、そうだね。お父様やお母様がいらした時はよくホールでパーティーをしたものな。厨房にはいつもご馳走が並んでいたね」  手元の野菜ばかりのポトフを見つめて、少し侘しくなってしまった。でもきっと、この生活は、もうすぐ終わりだ。 「雪也おいで」  小さな弟を抱きしめて誓う。  誓い──  もうあんな悲痛な誓いじゃない。  血を吐くような辛い誓いはいらない。 「今までごめん。僕はひとりで解決しようと分別を失っていたよ。周りを見る余裕もなくなって……これからは森宮さんと一緒に考えていこうと思う。それでも、いいかな」 「もちろんです! 僕こそずっと全部押し付けて、何も出来なくて、ごめんなさい」  雪也が黒い瞳をじわっと潤ませた。 「そんなことない、雪也がいたから頑張れた」 「僕でも少しはお役に立ったのですね」 「うん、森宮先生と僕を結び付けてくれたよ」 「それって『恋のキューピット』ですね!」 「くすっ、雪也はもう……いつもそんな夢みたいなことばかり」 「でも、兄さまも本当はお好きですよね」  じっと見つめられては、嘘はつけない。 「まぁ……好きだよ。あぁ僕は『おとぎ話』が好きだ」 「やっと認めましたね。また一緒に読みましょうよ。兄さまが僕の誕生日の度に贈って下さったご本が沢山あります」 「そうだね。これからは、少しそういう時間が取れそうだ」  読書する時間もなかったから……  これからは今まで出来なかった事を、積極的にしてみよう。  人生は一度きり──  それを忘れていた。 「あっそういえば、海里先生に恋文のお返事は書きました?」 「……うっうん」 「中身はやはり逢引きのお約束でした?」 「えっ……なんで、知って?」 「もう嫌だな。そんなの当たり前の展開ですよ。それでどこに行かれるのです? 洗足池でボート? それとも銀座でお食事ですか。それとも……」 「もういいから……内緒だよ」 「えぇずるい!」 「くすっ、じゃあ帰ってきたら話すよ」 「はい、そんな秘密なら喜んで! 僕までワクワクします!」 「そうだ。森宮さんと出かけている間、ひとりで留守番できるかな? それとも雪也も一緒に行くかい?」  雪也は目を丸くして、その後、とても楽しそうに笑った。   「兄さまはもう……僕にそんな野暮なことさせないでください。僕は兄さまが想像するよりも、ずっとしっかりしているんですよ」 「参ったな、いつの間に」  僕たちは、久しぶりに大きく笑い合った。  明るい笑い声が屋敷に響いた。  いつぶりだろう。  相変わらず、まだ真っ暗な屋敷なのに、いつもよりずっと明るく感じた。  そうか……気持ちの持ち方で、見え方って……変わっていくのだな。

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