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甘酸っぱい想い 17

「雪也、僕の服装、大丈夫かな?」  鏡越しに兄さまが濃い緑色のネクタイを締めながら、心配そうに話しかけてくる。  休日の朝から、兄さまは濃紺のスーツをきちんと着こなしていた。どこに行くのかは僕には内緒だけれども、緊張しながらも嬉しそうな兄さまの明るい表情に、僕の方まで嬉しくなるよ。 「兄さま、大丈夫です。とても素敵ですよ! それにしても随分と早いお出かけですね」 「そうかな? 10時に待ち合わせ場所に行かないといけなくてね。帰りは遅くならないようにするから、留守番を頼むよ。本当にひとりで大丈夫かな」 「兄さまったら……もっと遅くなっても構いませんよ」 「いや、ちゃんと帰って来るよ。あ……雪也の髪……少し伸びたね」 「そうでしょうか」  兄さまの細い指が優しく僕の髪を梳き、そのままあやすように頭を撫でられる。もう僕は中学生なのに、いつまでも子供扱い……でもそんな優しい兄さまが大好きです。だから子猫のように目を閉じて、兄さまに可愛がってもらいます。   「雪也、やっぱり……どこに行くのか話しておこうか」 「いえ、帰ってきたら今日の出来事をゆっくり話して下さいね。それまではあれこれ想像して楽しんでいます」 「……そういうものなの?」 「そういうものですよ」  僕の目の前、現実の世界で……海里先生と兄さまの恋は進み出した。  それを見守ることが出来て嬉しいです。  海里先生が届けてくれる……まるでおとぎ話のような展開を、僕は見守っていきます。それが今の僕の支えだから。  兄さまの幸せを見るのは、生きて行く糧になります。 ****  森宮さんへの返事には『歌舞伎鑑賞に行きたい』と、願いをしたためた。    僕の趣味を押し付けて大丈夫だったろうか。気の利いた場所が思いつかず申し訳ない気持ちもあった。  すぐに森宮さんから、今度は電話が入った。 『柊一、手紙をありがとう』 『あっはい』 『嬉しかったよ、君の行きたい場所に連れていく、早速だが次の日曜日は空いているか』  受話器越しの低く艶めいた声にドキっとする。  同性の男性の声のはずなのに、なんだかふわふわした気持ちになり落ち着かない。  指定された場所は日曜日の朝10時、銀座の百貨店のライオン像の前。 「ふぅ、少し早く着き過ぎたかな」  駅から足早に歩いたせいか汗ばんだので、スーツのジャケットを脱ぎ手に持った。ネクタイも緩めたかったが、それではだらしがないと我慢した。  久しぶりの銀座だ。  行き交う人の活気に圧倒されつつも、その銀座特有の上流階級の雰囲気を楽しんだ。皆、お洒落して楽しそうだ。  僕ももっと上質で洒落たスーツで来たかった。  こんな仕事着ではなくて。  以前衣装ダンスにずらりと並んでいた服のほとんどは質屋に入れて売ってしまった。  唯一残っていたあの三つ揃えは、あの時……  あっ駄目だ。もっと楽しく幸せなことを考えよう。  そうだ………歌舞伎好きの父とふたりでよく観劇した。瑠衣に百貨店前で車から降ろしてもらい、そこから父と肩を並べて歩いた。時には寄り道をし、母の目を盗んでチョコレートパフェを食べたりもした。  いつも父は和装で、僕は学生服だった。  背も高く精悍な父は僕の憧れだった。    とても幸せな懐かしい思い出だ。  すると僕の目の前を和装の男性が過ぎった。  珍しいな……男性の和装は最近減ってきているのに。  あまりジロジロ見るのも失礼かなと目を逸らしたのに、突然名を呼ばれて驚いた。 「柊一、待たせたね」 「えっ!」  驚いた。颯爽と着物を着こなしているのは、なんと森宮さんだった。  洋風な顔立ちなのに、しっとり匂い立つような和風の美丈夫ぶりに、僕の周りが騒然となる程で、たじろいでしまった。  明るい薄鼠色紋付の着物と羽織に袴、角帯……完璧なまでの和装姿に驚いた。 「どっどうして? その姿……」 「驚いた?」 「え……えぇ」 「それだけなのか」 「えっと」  目線の高さまでしゃがんで、覗き込まれる。至近距離でそのエメラルドがかった甘く美しい瞳に見つめられると、熱風が駆け上ってくるようで、眩暈がしそうだ。  いや……本当にクラクラしてしまった。 「おっと」    ふらっと躰が横に揺れた所を、森宮さんの腕の中に強く抱きしめられて焦った。  だって……ここ公衆の面前だ!  周りの女性陣の黄色いキャーっという歓声が遠くに聞こえてくる。 「す、すみません。よろけてしまって」 「もしかして暑いのでは? 額に汗をかいているな」  そのまま額に口づけされそうな程……甘い雰囲気を出されて、たじろいでしまう。 「そっそれは……だって、あなたが和装でいらっしゃるとは思っていなくて」 「嫌だった?」 「とんでもない、素敵過ぎて……ドキドキして、眩暈が……あっ」  なんで……?  こんな風に自分の熱い気持ちを外にそのまま出したことはないのに、森宮さんに誘導されると、自然と零れ落ちていってしまう。  これはきっと、恋の引力だ。 「ふっ、嬉しいよ。さぁ君も着替えにいこう」 「えっ……どちらへ?」  彼はとても自然に僕の背中に手を回し、百貨店の中へと誘導《エスコート》した。

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