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甘酸っぱい想い 20

 歌舞伎は桟敷席を用意した。 「おいで、こちらだ」 「え……桟敷席だなんて高価なのに、よろしいのですか」 「あぁ花道も近いし、いい席だろう」 「本当にありがとうございます」 「喜んでもらえて嬉しいよ」  礼儀正しくお辞儀をして顔を上げた柊一の頬が、桜色に上気していたので、俺も満足した気持ちになった。  今まで女性と演奏会などに行く機会は幾度となくあったが、こんなに丁寧に感謝されたのは初めてで、俺の方まで畏まってしまう。  だが少しも窮屈ではない。柊一が喜んでいるという事実が嬉しくて。  横並びに座ると、すぐに演目が始まった。  京鹿子娘道成寺《キョウガノコムスメドウジョウジ 》  桜花爛漫の紀州道成寺が舞台の豪華絢爛な世界が、目の前で繰り広げられていく。舞台の大半を占める大きな鐘の厳かな音が印象的だった。  といっても俺は歌舞伎に詳しくないので、内容について正直理解出来ない部分もあり、ついちらちらと、不謹慎だが舞台ではなく隣に座る柊一の事を見つめてしまった。  柊一は目を輝かせて、歌舞伎に夢中になっていた。  学びを吸収している理知的な瞳が眩しい。  楚々とした雰囲気に宿る品格は、知性故なのか。    本当に思わず見惚れてしまう。  真新しいスーツを端正に着こなした君を皆に見せびらかしたいような、俺だけの中に隠しておきたいような……  この揺れ動く心が『恋心』というものなのか。  やがて拍手喝采のあと、演目と演目の間の休憩時間に入った。 「柊一、幕間だ。昼食に行こう」 「えっそこまで用意して下さったのですか」 「当たり前だ」    歌舞伎座内の有名な懐石料理店の個室を予約していた。ふたりきりになれる場所が欲しかった。 「あっこちらのお店を?」 「あぁ君にはこういう店が似合うと思ってな。さぁ入って」  優しく背を押すと、柊一は臆することなく優雅に立振る舞い、着席した。きっとこの店は両親が健在の頃に、何度も利用した事があるのだろう。 「……森宮さん、すみません」  ところが柊一は、着席するなり耳を赤くして俯いてしまった。 「どうした?」 「その、昼食は僕がご馳走しようと思っていたのですが、あいにく……」 「その先は言うな」 「ですが……何から何まで申し訳ないのです。僕だって、その、男ですから」  ハッとした。  柊一だって、一人前の男なのだ。  幼く……どこか頼りなく見える外見とは裏腹に、旧家の歴史を背負い、弟を守ってきたのだ。男として甲斐性を持ち合わせているのだ。その気持ちを蔑ろにするべきではなかった。 「君の心を置いていってしまった。すまない」 「あっいえ、その……では、出世払いでいいですか」  柊一はすぐに俺の動揺を汲み取り、柔らかい言葉で対応してくれた。    君のこんな風に柔軟で寛容な所が好きだ。 「あぁもちろんだ。そうだ、ホテルとの契約の書類を持って来た。これはあくまでも案だが、目を通しておいてくれ。細かい金額などは詰めて行こう」 「ありがとうございます。本当に勿体ない話です」  柊一はざっと目を通し、微笑んだ。 「夢みたいです。このような形で収入を得る方法があるなんて、思いもしなかったので」 「おいおい、もっとしっかり書類を確認してくれ」 「はい。もちろんですが、僕はあなたを全面的に信頼していますので」  柊一の言葉は、俺の心を掴んで離さない。  信頼してもらっている事が嬉しい。  その事をしっかり伝えたい。  言葉だけで足りるのか分からないが、それでも伝えたくなった。 「俺は……君を裏切らない」 「森宮さん、僕は不思議です。あなたの言葉だけは、どれも真実だと分かるのです。それはきっと……」 「何だ?」  柊一は俯きながら……小声で告げてくれた。 「その……誓いの|口づけ《Kiss》をいただいたからでしょうか」  あぁ、本当に可愛い人だ。   「それで一つお願いが」 「何でも」 「その……レストランで僕も働かせてもらえませんか。もちろん経験がないので修行はしますので」 「ん? 君に接客をさせるのか」 「いけませんか」 「少し心配だ」 「でも……何か働かせて欲しいです」 「考えておこう。さぁまずは昼食を」  ちょうど見事な出来栄えの松花堂弁当が運ばれてきた。 「わぁ綺麗ですね……四つに仕切った小宇宙に季節の旬が閉じ込められています」    うっとりと料理を見つめる柊一。    君は俺を一喜一憂させてくれる存在だ。  君と過ごす時間は、まるで万華鏡のように美しく変化していく。  恋することは、嬉しくて同時に切ないものなんだな。  瑠衣……俺にもようやく分かってきたぞ。  心の中で、英国にいる瑠衣に話しかける。  苦渋の恋を実らせたお前の気持ちが、少しずつ俺にも分かってくる。  恋心について考えていると、柊一も同じことを考えていたのか、そっと教えてくれた。 「今日の歌舞伎の演目の主題は『恋心』でしたね」 「あぁそうだな。面白かったか」 「はい、学ぶことが多いです」 「学ぶ?」 「えぇ……僕は今……あなたに恋をしているので」  あぁまただ。  柊一の言葉が俺の心を躍らせる。    言葉で伝えあう── その事の意味を知るよ。

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