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花の蜜 1
待ちに待った日曜日《Sunday》
森宮さんが、午前中から庭の手入れに来てくれる約束の日だ。
彼は平日は大学病院に外科医として勤務しているから多忙なのに、貴重な休日を僕と過ごしてくれる。
その事がじわじわと嬉しかった。
楽しい約束があれば一週間なんてあっという間だ。
こんなにも時が過ぎるのが早いとは知らなかった。
今の僕は、来る日も来る日も辛い仕事に向かっていた時とは別人だ。もうあのようにいきなり書類を顔に投げつけられ、ロッカーで水をかけられたり、侮蔑の視線で蔑まれたり、卑猥な言葉で貶められることはない。
生きた心地もしない日から、生きているのが嬉しい日になった。
早起きし支度を手早く整え、雪也の部屋に向かう。
僕の足取りはふわふわと雲の上を歩くように軽かった。
「雪也、おはよう。まだ眠っているの?」
「ん……兄さま。お早いですね……おはようございます」
「今日もいいお天気だよ」
北欧の湖のようなブルーグレーのカーテンを開けると、初夏めいた薫風が吹き抜けた。
「本当ですね。空気が澄んでいて美味しいです」
「そうだね」
この部屋からも中庭《terrace》が良く見える。白薔薇に囲まれた中央に白いタイルは敷き詰められた場所を、母はよくお茶会で使っていた。今日はあそこにテーブルを出し、彼に休憩してもらおう。
「さぁ起きようか」
雪也のベッドに腰かけて、彼の寝ぐせで跳ねた黒髪を撫でてやる。
「んっもう、兄さまはいつまでも僕を子供扱い……」
「ごめん、ごめん。可愛くて、つい」
「ふふっ上機嫌ですね。今日海里先生と逢えるが嬉しいのですね」
図星を指され照れくさくなってしまったので、(その通りだよ)と、心の中で返事をした。
「先に朝食の支度をしているね」
「はい!」
白いエプロンをし白シャツを腕まくりしたら、準備万端だ。
もともとパーティー好きだった母がこだわった厨房は、全盛期にはコックを3人も雇い活気のある場所だった。
今はもう誰もいないけれども、この屋敷がある限り、ここは健在だ。この広い厨房も広い1階の会場も、レストランとして再活用できるとは夢のようだ。
小麦粉とベーキングパウダーを合わせボールにふるい、賽の目に切ったバターを指でつぶしながら混ぜ入れて、砂糖も大匙でふりいれて……あとは牛乳を少しずつ足して手でまとめていく。
「ん、いい生地が出来たな」
それを2cmほどの厚みに伸ばして、型で抜いてオーブンシートの上に整列させていく。温めておいたオーブンに入れた所で雪也が起きて来た。
「わぁ兄さま、スコーン《Scone》を焼いてくださるのですか」
「うん。ちょっと練習を兼ねてね」
「もう完璧なのに、兄さまは真面目ですね」
「そうかな」
自分でも几帳面で真面目な性格だとは思うが、少しでも精進して森宮さんに美味しいスコーンを提供したいと思うのは悪いことではないはず。
「雪也、どうかな」
「兄さま、今日のスコーンの出来、最高です!」
甘い苺ジャムとクロテッドクリームを塗ったスコーンを口に入れると、幸せな甘酸っぱい味がした。
「美味しいです。これってお母様の味ですね」
「そうだね。お母様とはもう会えないけれども……こうやって身近に感じることは出来るね」
「はい!」
****
「テツ行ってくるよ」
「はぁ海里さん、またその恰好ですか。また汚れても知りませんよ」
出かけに庭師のテツに声をかけると呆れられた。
どうやら俺が庭いじりに行くのに、また淡い色のスーツを着ていることを咎めているようだ。
「仕方がないだろう。この姿以外は白衣しか見せたことない。あっ、待てよ。あとは裸か。うん裸は見せたな」
「は? ハダカって……はぁーもうそのお嬢さんとそんな関係に? やれやれ、気を付けてくださいよ」
テツは肩をすくめて、苦笑した。
「……お幸せに。いよいよひと際美しく薔薇が開花する季節ですからね」
「あぁ、お前のアドバイス通り病害虫の対策や、側蕾取りをしっかりしたので
上手くいきそうだよ」
「開花時期を迎えるバラは、水をたくさん必要としますよ。だから毎日の水やりも忘れずに」
「あぁ、今から行ってくる」
「姫とのご健闘を祈ります」
ふっ、姫ではないのだよ。テツ。
柊一は立派な男であって、優しい兄……旧家を守りぬく当主だ。
だが、俺にとってはどこまでも愛しい人に変わりはない。
お前は1本の枝に多くの蕾を残していると、栄養分が分散されて花が小ぶりになると言ったな。だから俺は柊一が綺麗に花開けるように、彼の悩みを一つ一つ取り除いて安心させてやりたい。
彼が喜ぶことをしてあげたい。
それは柊一の方も、俺に感じてくれているようだ。
「森宮さん!」
俺が車で到着するなり駆け寄ってくれた君の上気した頬、明るい表情からひしひしと伝わって来る。
想い想われることの喜びを、柊一は教えてくれる。
「やぁ待たせたね」
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