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花の蜜 2
スコーンにジャムを付けて食べると、甘酸っぱくて美味しかった。でも少しだけ母の味と違うような。
「兄さま、そういえば以前はお庭に苺やブルーベリーが育っていましたよね。今は枯れちゃったみたいですが……よくお母様と一緒に籠を持って摘みにいったのを思い出しました」
「そうだったの?」
「えぇ、お母様はそれでジャムを作っていました」
「そうか……知らなかったな」
「兄さまはあの頃お忙しかったから」
あれはお母様の手作りのジャムだったのか。道理で味が違うと思った。市販のジャムでももちろん美味しいが……甘さが少し控えられ、その分果実味が深いあの味が忘れられないな。
確かに僕は帝王教育を受け続け、家庭的な事や雪也の病気の事に対して本当に無頓着だった。日常の細かい雑事は全部瑠衣がやってくれていた。
「僕は雪也にいろいろ教えてもらわないとな」
雪也はイキイキと目を輝かせた。
「はい! 僕が兄さまのお役に立てるなんて嬉しいです」
「雪也に頼みたい事が沢山あるけれども、まずは手術のために体力を整えて欲しい」
「分かりました。でも僕……最近とても調子がいいです。兄さまが毎日お傍にいてくださるし、海里先生が気にかけて下さるし……本当に幸せです」
「ありがとう。僕も雪也にも、もっともっと幸せになって欲しいよ」
「兄さまが幸せだと僕も幸せです」
雪也はまだ13歳なのに何もかも達観し、病弱な躰の分、人の心の襞に繊細な子だ。どこまでも愛おしい存在だ。
「今日は楽しい1日にしよう」
「はい! あ……兄さま、そろそろ先生がお見えになりますよ」
「あっもう10時か」
時計を見た途端、心が跳ねた。
こんなに彼の来訪が待ち遠しいなんて、こんなに彼に逢いたいなんて。どうしよう……今すぐ席を立って早く彼の元に行きたいと願ってしまうなんて。
「兄さま、何をしているんです?」
「え?」
「こういう時は玄関で待っていると喜ばれるものですよ」
「そ……うなの?」
「そういうものですよ。さぁここは片付けておきますから、兄さまはお迎えに行っていいですよ」
参ったな。これじゃ雪也の方が年上みたいだ。10歳も年下の弟なのに……変な気分になるな。
まったく恋って不思議だ。何もかも慣れないことばかりで戸惑ってしまう。
だけど楽しい。毎日がワクワクする。
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
「えぇ、いってらっしゃい」
玄関に立って庭を見つめると、季節が変わり、いつの間にか春を迎えていたことに気が付いた。ずっと季節なんて感じられない程忙しかったから、こんな風に思うのは久しぶりだ。
もしかしたら、僕の心は随分前から凍っていたのかもしれない。
あの雪の日に病院の屋上で父さまと誓いを立てた日から、少しずつ凍って
しまった。でももう解き放ってもいい。僕自身がそうしたいと願い、それを許すのだから。
やがて風の匂いが変わる。
なだらかなカーブを優雅に走って近づいてくる白い自家用車が見えた。
「森宮さんだ、時間通りに来てくれた」
彼の方もすぐに僕が立っている事に気が付いてくれ、車越しに目が合い、また心が跳ねた。
車から降りた彼は匂い立つような美丈夫だった。今日も淡い色の上質なスーツを纏い、まるで今から舞踏会にでも行くように颯爽とした出で立ちだ。
それでいて僕にだけ見せるとびきりの甘い笑顔が艶めいて……こんな朝日の下なのに、男の色気にあてられてしまう。
今日は……あまりに素敵過ぎて……目を逸らせない。
「やぁ柊一、いい子にしていたかい?」
またそんな言い方を……でも優しい気遣いが嬉しくて、彼に甘えてもいいのだという気分にさせてもらえる。だから僕の方も、誰にも見せたことのない甘い笑みを浮かべてしまった。
「いいね、その笑顔……柊一の笑顔は可愛いよね」
「か、可愛いって……僕、男です」
「ふっ、可愛いに男女は関係ないよ。それにその姿もいいね」
そう言われてはっと気づく。
僕はエプロンをしたままだ。しかもエプロンはスコーン作りの名残で汚れて粉っぽかった。
「すみません」
「ん? 何を恥ずかしがる?」
「ですが……僕だけこんな砕けた姿で恥ずかしいのです」
「そんなことない。俺なんて君に裸まで、見せただろう?」
ギョッとするような事を言われて、顔が真っ赤になってしまう。思わずあの朝の森宮さんの裸体を思い出し、顔が火照った。
「そっ……そんな言い方、雪也が聞いたら誤解しますのでっ」
「くくっ、柊一はやっぱり可愛いね。それに……ここに」
彼が一歩近づいてくるので、ドギマギしてしまった。
そのまま彼の指が僕の唇に伸びてきて、少し拭われた。
「ついてるよ」
指先についた赤いものをペロッと彼は舐めた。
「あぁなるほど、苺ジャムか」
一連の動作が色めきすぎてクラクラしてきた。
「な……なんで」
僕は自分の唇が食べられたような変な気分になって、その場にしゃがみこんでしまった。
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