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花の蜜 4

 森宮さんに昼食を作りますと申し出たら、先に庭の作業をするのでアフタヌーンティーで大丈夫だと言われ、手持ち無沙汰になってしまった。  そうだ、今のうちに着替えておこう。  朝からバタバタと奮闘し汗をかいたので、一旦着替えるために2階の自室に戻ってきた。  ふと森宮さんのことが気になり、レースのカーテンの隙間から様子を窺った。  はしたないことを──と思いながらも、止まらない。  森宮さんは上着を枝にひっかけ、白いワイシャツを腕まくりして白薔薇の剪定に夢中だった。  彼を見ていると、とても華やかな気持ちになる。    甘く華やかな白薔薇の香りが、ここまで届きそうだ。  なんだか胸が苦しい……  雪也が言うにはこれは病気ではなく、恋煩いの一種だそうだ。  はぁ……恋ってこんなに苦しいのか。  すると突然視界に人が増えたので驚いた。しかも女性だ。大きなベビーカーを押しているワンピース姿の人は…… 「えっ白江さんが、どうして?」  彼女は僕の幼馴染だ。  お向かいの広大な屋敷の一人娘、白江《しろえ》さんは、この界隈で有名な美人だ。2年前に結婚し昨年双子の女の子の母となった。  母になっても月のように優雅な美貌は衰えず、ますますしっとりと輝くようだ。  彼女は……実は僕の許嫁だったそうだ。  お互いの家がそれぞれに財力を持った家に援助を頼らざる得ない状況になり、僕たちに話が下りてくる前に破談となった。  僕がそれを聞いたのは両親が亡くなり会社を継いだ後だった。その頃、白江さんは経済界で有名な人物の三男坊を婿養子に迎えていた。  今となっては、それでよかったと思う。  僕は幼馴染としての白江さんが好きだが、恋愛対象として捉えたことはなかったから。  それにしても……白江さんが森宮さんと朗らかに話す様子を、食い入るように見てしまった。  しかも最後には森宮さんは|片瞬き《ウインク》までして……  それって女性を靡かせたい時にするものでは。  そう思うと、むうっと複雑な気持ちになり落ち込んでしまった。 「兄さま、さっきから何を見ているのですか」  背後から雪也に話しかけられたので、慌ててカーテンをピシャッと閉めた。  雪也が窓の外を見つめると、帰って行く白江さんの後ろ姿を捉えてしまったようだ。 「……なんでもないよ。少し本を読もうと思ってね」  誤魔化すように答えると、雪也は呆れ顔になった。 「もう……兄さまは、何でもこなされるのに不器用ですね」 「えっ、どういうこと?」 「物語の恋は憧れであっても、兄さまの恋の手引き書にはならないのかも」 「どういうこと?」 「これは……現実で、海里先生と兄さまだけの物語ですよ。だから兄さまは、今は本を読んでいる場合ではないですよ 」  雪也に問われて、ハッとした。 「……うっ、森宮さんの様子を見てくるよ」 「はい。それがいいと思いますよ。それから僕は少しお昼寝していますね」 「えっこんな時間から? 雪也、どこかまた具合が悪いのか」    心配になって雪也を覗き込んで様子を伺うと、苦笑されてしまった。 「もう、兄さまはやっぱり……可愛いです」 ****  「ふぅ、思ったよりも大変な作業だ」  薔薇の剪定をしていると身体が熱くなり視界が滲んできた。  汗が目に入って沁み、日光に照らされた躰は暑く喉も渇いた。  テツに帽子を持って行けと言われた理由が、やっと理解できた。  そこにいいタイミングで、柊一が現れた。   「森宮さん、少し休憩されますか」 「あぁ、そうしようか」 「あの……レモネードを作ってみました」 「いいね」  氷の入ったレモネードのグラスとサンドイッチがお盆に載っていた。 「へぇサンドイッチも君が作ったの?」 「はい、やっぱり躰を動かすとお腹が空くのではと思って、先に手を洗いに行かれますか」  遠慮がちに聞かれ、つい甘えたくなった。 「待てないよ。君が飲ませてくれない?」 「えっ」  明らかに動揺する様子が可愛くて揶揄ってしまうのが、俺の悪い癖だ。 「柊一は可愛いね。口移しってわけじゃないんだから、そんなに反応されると期待してしまうよ」  言い過ぎたと思ったのは、柊一の瞳から突然涙が零れた時だ。 「あっ……」  柊一も自分がどうして泣くのか分からないようで、戸惑っていた。  柊一は慣れていないのだ。  俺が遊び半分でやってきた恋の駆け引きなんて知らないのだ。必要ないのだ。激しく後悔してしまい、汚れた手だったが、そのまま逃げ出してしまいそうになった柊一を抱きしめた。 「ごめんな。悪かった」 「うっ……森宮さんは慣れていますよね。でも僕は全然分からないんです。さっきだって」 「さっき? どうした? 言ってみて」 「あ……何でもないです」 「ちゃんと言って欲しい。俺も直したいんだ」 「……白江さんに、片瞬きなんかしてっ」  あれを見ていたのか。  可愛い焼きもちに感動してしまった。 「俺は柊一のことしか見てないよ。重ね重ね、すまなかった」  彼の目元に浮かんだ涙を舌先で舐め取ると、柊一の頬が林檎のように染まった。   「美味しそうだな。林檎みたいで……」  だから頬にも口づけする。 「あっ」 「やっぱり腹が空いているようだ。ここはサクランボのように瑞々しいね」 「えっ……」  柊一が俺を見上げる。 「ここを食べても?」  舌先でそっと柊一の唇をノックしてみた。  

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