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花の蜜 9
「柊一、俺は兄と戻らないといけないが、大丈夫か」
「はい。今日はありがとうございます」
「またすぐに連絡するよ」
「はい、待っています」
お茶会の場で森宮さんのお兄様から説明を細かく受け、最後に契約書に署名した。
これで一気に動き出す。
僕はこの道を信じているし、森宮さんが支えてくれる。だから少しも怖くはない。
最後に森宮さんのお屋敷の執事が、僕にそっと尋ねてきた。白髪混じりの初老の男性で、ピンと伸ばした背筋には慎ましい中にも長年勤め上げた貫禄が見え隠れしていた。いかにも執事らしい執事だ。
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、このお屋敷の執事は確か……」
「あぁ……瑠衣のことですか」
「そうです。彼はここにいないのですか。先ほどから姿が見えないので気になりまして」
「えぇでも両親が亡くなった後ではなく、それより前に新しい職場に移ってもらいました」
「そうですか。彼は一体どこへ行ったのでしょう」
「……何故それを?」
瑠衣の行方は知っている。だが僕が軽々しく口にするものではないと思った。いくら森宮さんのお屋敷の執事といえども、どういう関係だか分からない相手に。
「あっいえ。執事の分際で無礼な振る舞いをしました。お詫びします」
彼も行き過ぎた事を聞いたと恥じていた。でもその姿に嫌な気配は微塵も感じなかった。
「瑠衣は……今、とても幸せに暮らしていますよ」
きっと……確かめていないが、そう感じている。
2年前に日本を発った瑠衣の詳細は何も分からない。僕はあれからあまりに境遇が変わってしまった。大切な人の元へようやく辿り着いた瑠衣に余計な心配を掛けたくなかったので、意識的に連絡しなかった。
「そうですか。それを聞けて安心致しました。教えて下さってありがとうございます。柊一様……」
深々とお辞儀をして去って行く様子に、少しの良心が痛んだ。
「兄さま、どうなさったのですか」
雪也が心配そうに聞いてくる。
「あぁ瑠衣のことを急に聞かれてね」
「瑠衣のことご存じだったのですか。あの執事さん……」
「うん、どうしてだろうね?」
「あっ、何か関係があるのかも」
「どういうこと?」
僕には、さっぱり分からない。
「だって海里先生と瑠衣は仲良しですね」
「えっと、そうだっけ?」
「嫌だな。兄さまってば、だから僕が最初に発作を起こした時、瑠衣が海里先生を頼って、ここに呼んでくれたのですよ」
「そうだったのか……今度、森宮さんにちゃんと聞いてみるよ」
「ですね!」
あの時駆けつけてくれた医師が森宮さんだったのは後に理解したが、瑠衣との関係までは考えていなかった。
なんだか僕は瑠衣に無性に会いたくなってしまった。
海里先生と瑠衣、性質は真逆だが、以前も感じた通り奥深い所が似ている。
手紙を書いてみよう。2年ぶりに瑠衣に……
****
兄貴が休日を返上して突然訪ねてくるとは驚いた。正直予期していなかった。しかも勘のいい兄貴には、柊一との初めての接吻で舞い上がっていた俺の浮ついた心を、すっかり見通されてしまった。
屋敷に戻ってくるなり「いい事があったようだな。始終、顔が崩れていたぞ」などと言われる始末で、情けない。
母親違いで五歳年上の兄には、瑠衣にした酷い仕打ちは別として……畏敬の念は抱いていた。そんな彼が柊一を認めてくれたのは嬉しかった。
どうやら柊一が俺に頼り切っていない所が、気に入ったようだ。
俺はいくらでも頼ってもらいたいし、甘えてもらいたい。どこまでも俺が庇護して守ってやりたいと思っていたが、そうではないのと気づくきっかけをもらった。
柊一は努力家だ。一見儚げな外見だが、芯がしっかりしている。だから彼を守るだけでは、彼に心から惚れてもらえないのだと悟った。
男同士の真剣な恋なのだ。
俺たちの間に芽生えたのは──
自信を取り戻していく柊一が眩しいよ。
同時に俺との口づけに溺れていく姿が可愛らしかった。
あの甘い姿は俺だけのものだ。
甘酸っぱい口づけの味も俺だけの特権だ。
俺にしか見せない顔があるのがいい。
ますます君に惚れてしまうよ。
君はどうだった?
俺との初めての口づけ、二度目の口づけ……
今後の事も前向きに考えてもらえそうか。
夜空に瞬く北極星《ポラリス》の下で、甘い口づけの余韻に浸った。
俺も変わろう。
もっと柊一に相応しい人になれるように。
さぁ次の約束《Promise》をしよう。
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