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花の蜜 10

 イギリス・ノーサンプトンシャー  ロンドンから67マイル (108 km)北西にある貴族の館で、僕は暮らす。  広大なグレイ家の屋敷には、僕とアーサーの他、料理人、運転手、メイド、庭師……ごく限られた人数の使用人しか住んでいない。  アーサーはもう必要ないと言うが、僕は執事の仕事を続けている。  何もしないと言うのが、僕には辛い。どうか分かって欲しい。 「Mr.Rui こちらが本日の郵便です」 「あの……僕に『Mr』はつけなくていいのですが」 「そんな訳にはいきません。あなた様は旦那さまの大切なお方ですから」  いつまでも慣れない呼び方に気恥ずかしさが募る。日本ではずっと仕える身だったし、それが妾腹の僕に相応しく性に合っているのに。  重厚な飾りがついた年代物の|机《Study Desk》に、届いたばかりの手紙の束を並べた。  殆どがロンドン市内からの転送物だ。社交界のパーティーの招待状に結婚式の招待状……アーサーが病に倒れ社交界から身を引いても一向に途絶えない。それ程までに彼は立派な血筋なのだ。本来ならば僕のような中途半端な出自の人間が近づけない高貴な身分だ。それを思い知らされる。 「これって……」  僕宛の郵便なんてないのが当たり前なのに、その中に今日は懐かしい文字を見つけてしまった。  「まさか……柊一様? どうしてここを?」  彼は、僕が執事養成学校を卒業してすぐに勤めた『冬郷家』のご子息だ。  柊一様がまだ幼い少年時代からお傍に仕え、成人するまで、寝食を共にし見守ったのだ。  彼の几帳面で丁寧な文字を、忘れるはずがない。  しかし……どうしたのだろう。僕の英国の住所までは教えていかなかったはずだが。旦那様から英国に行くからには柊一様と関係を絶つように厳しく言われていた。旦那様が教えたのではないのなら、柊一様自ら自発的に調べて連絡して来たことになる。  嫌な予感──?  まさか雪也様に何かあったのでは。海里は症状は落ち着いていると言っていたのに。  逸る心で|ナイフ《 paper knife》で封を切った。  そして手紙の冒頭部を読み……驚愕した。  手が震える!  嘘だ!   あの頼もしかった旦那様とお優しかった奥様がお亡くなりに?   そんなの信じられない。しかも2年も前に交通事故でなんて!  僕はその時何をしていた? 柊一様と雪也様が大変な時に、何も出来ずに自分の幸せだけを享受していた。何も知らずにのうのうと生きていた。  おっ……落ち着かないと。  指先が震えティーカップを床に真っ逆さまに落としてしまった。  ガシャン──と派手な音が廊下まで響いた。 「ルイ、どうした?」  すぐにアーサーが駆けつけてくれた。  僕は今どんな表情をしている?  アーサーは悪くない。英国には僕の意志で来たのだ。だから絶対に悟られてはいけない。 「何でもないよ。すまない。手が滑って割ってしまった。大事なカップなのに……」 「何もない顔ではないぞ」 「本当に何でもない!」 「じゃあ、その手に持っているものは何だ?」 「あっ」  慌てて手紙を、後ろ手に隠した。 「それは日本語の手紙だな。それに君は泣いている」 「泣いてなんか、いない」  僕は絶対に……簡単に涙なんて見せない。  アーサーのためになら嘘をつき通す覚悟だ。 「ホームシックか……どうした?」    アーサーが僕の両肩を掴んで、じっと覗き込んでくる。  碧の瞳に覗き込まれて、胸が切な苦しくなる。 「いい歳してそれはない。それに日本に僕を待つ家族なんていないのだから」 「嘘だ」 「嘘ではない」 「だってルイ……君はあの時と同じ顔をしている」 「あの時……」 「もう間違えたくない。今度は、今度こそは、一つ一つその都度、対処していくと誓ったろう」  僕だって13年間も待たせたアーサーに、これ以上の心配はかけたくない。 「ルイ……君はもう……ひとりで耐えなくていい」  顎を掴まれ……アーサーの優しい口づけを受ける。  僕の固く閉ざした口を割られていく。  紡げなかった言葉を引き出されてしまう。 「あっ駄目だ。まだ日も高いのに……君からの深いキスは……響く」    アールグレイの紅茶がほのかに香る巧みな口づけに、僕は弱い。 「なら、話すか」 「わ……わかった」    ここに来る前に勤めていた家の旦那さまと奥様が交通事故で亡くなり、お子様だけが遺されたという事情を、掻い摘んで話した。 「いつだ?」 「二年前だそうだ。僕は何も知らずにここでのうのうと暮して……最低だ」 「そうじゃないだろう。どうして二年間も知らせてこなかったのか。相手の気持ちを考えてみろ」 「あっ」 「ルイ、瑠衣……もう泣くな。君の泣き顔に俺は弱い。手紙には他になんと?」 「……まだ最後まで読んでない」 「馬鹿だな……結論を急ぐな。一緒に読んでも?」 「そうして欲しい」  アーサーとソファに横並びに座ると、肩をギュッと力強く抱かれた。 「落ち着いて……きっと悪いニュースばかりではないはずだ。わざわざ今になって知らせてくるからには」 「そうだといいが……」  

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