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花の蜜 18
「兄さま……あの……あのですね」
「ん?」
瑠衣と雪也に抱かれていると、雪也が躊躇いがちに訴えて来た。
見下ろすと、眉を寄せ、お腹を擦っている。
えっどうした? どこかまた具合が悪いのか。
途端にさっきまでの幸せな気持ちが去り、不安で一杯になってしまった。
僕はいつだって雪也の体調が心配だから。
「どっどうした? お腹が痛いのか。どの辺り? 森宮さんに診てもらおう」
「もうっ……恥ずかしいです。兄さまってば」
「えっどういうこと?」
全く分からなくて、森宮さんを目で追い縋ってしまう。
あぁ僕は本当に弱くなった。
いつも一人で判断し対処してきたのに。
同時に……今は頼りになり安心できる人が、すぐ傍にいるのを実感した。
その事が密に嬉しかった。
僕はもうひとりで悩まなくていい。
すると森宮さんは少し愉快そうに魅惑的に微笑んだ。
「くくっ柊一、これを渡すといい。雪也くんの病名は『空腹』だよ」
「あっ!」
そうだ……! 雪也に夕食をまだ食べさせていなかった。すっかり失念していた。せっかく海里先生が沢山お寿司を折詰にして下さったのに、寄り道をして。
中庭で……僕らが過ごす時間は、長すぎた。
「雪也、ごめんよ。今日はお寿司だよ」
「もうっ兄さまはデザートまでたっぷり召し上がったかもしれませんが、僕の方は、お腹ペコペコですよ」
雪也が可愛く文句を言うと、アーサーも釣られて笑った。
「実に可愛い坊やだね。利発な子だ。そうなんだ。俺達は寄り道して|甘い《sweet》デザートを沢山食べて来たからね」
「アーサー……もう頼むから……やめてくれ」
あぁまた瑠衣の仮面が崩れ落ちる。面映ゆそうに揺れている。頬だってあんなに染め上げて。
その様子を森宮さんと微笑ましく見守った。
僕自身も森宮さんと交わした濃厚な口づけを思い出すのは恥ずかしいが、瑠衣はもっと恥ずかしいのだろう。この屋敷ではいつも冷静沈着だった瑠衣が、しどろもどろになって……青白かった顔は血色良く桜色に染まり、どこまでも健康的だ。
瑠衣は生きている。しあわせそうに生きている。
それをこの眼で確かめる事が出来て、改めて幸せだ。
「あっそうか、兄さま。こちらがあのお手紙の主のアーサーさんなんですね」
「そうだよ。えっと、瑠衣の……」
うーん、彼と瑠衣の関係を幼い雪也に何と伝えればいいかな。少し戸惑うと、雪也の方がウィンクして可愛く笑った。
「海里先生と兄さま。アーサーさんと瑠衣は、つまり同じ間柄ですね」
当たり前のように断言する弟に唖然とした。
一体いつの間にそんなことまで理解するようになったのか。いつまでも小さくないのか。もう僕がひたすら守ってあげないといけない子供ではないのか。
「柊一、雪也くんは大丈夫さ。人は皆、成長するものだよ」
「はい、そのようですね」
僕は自然な雰囲気で、森宮さんに肩を抱かれた。
素直に受け入れられる、あなたが囁けば何もかも──
皆去って誰もいなくなった屋敷だったのに、今は違う。
僕を愛し、僕が愛し……
瑠衣を愛し、瑠衣が愛す人がいる。
そして皆から可愛がられる雪也が、僕らの中心で笑っている。
華やかな時代は去り孤独で寂寥な世界になったが、今は人の温もりを感じられる距離に皆がいる。
それが嬉しくて、視界がやっぱり滲むよ。
「兄さま、今日はこのまま皆さんに泊まってもらいましょうよ」
「あぁそうだね。アーサーさん、瑠衣、ぜひそうして下さい」
僕は冬郷家の当主として遠方からの客人を迎えるために、襟を正した。
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