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花の蜜 32
「海里、わざわざ外に呼び出すなんて、どうした? 屋敷で、柊一さまに会えばいいのに」
「いや、会うと欲しくなるから……駄目だ」
仕事帰りに瑠衣を病院近くの喫茶店に呼び出した。
瑠衣は珈琲を綺麗な仕草で飲みながら、不思議そうに俺を見つめた。
「くすっ」
「おいっ、笑うなよ」
「いや、海里がそこまで柊一さまを大切にしてくれて嬉しいよ」
「あぁ柊一は迂闊に手を出していい相手じゃない。だが早く全部欲しくなる相手でもあってな」
露骨な言い方に、瑠衣の頬が朱に染まるのを見逃さない。
瑠衣の方こそ、アーサーにすっかり明け渡している癖に。
瑠衣が澄ました表情を浮かべると、どこまでも清楚で高潔な印象が強まるな。アーサーもこれでは堪らないだろう。日中の瑠衣のこの雰囲気を、夜になると崩したくて仕方がなくなるのも無理もない。
昨日も散々喘がされたのか、少し声が掠れているし、目の下に隈が出来ているが、兄として素知らぬふりをしてやった。
「ところで海里、今日は何か話があって呼び出したのでは?」
「うむ、その……」
長年、冬郷家の執事を務めた瑠衣を目前に、当主の柊一と形だけでも結婚式を挙げたいと申し出るのは、いささか緊張し言葉に詰まってしまう。
「そうだ。君たち、一緒に住むのならその前にけじめとして結婚式をあげたらどう?」
驚いた。瑠衣の方から俺が言おうと思っていた事を提案してくるなんて。
「瑠衣、いいのか」
「どうして僕に許可を?」
「だって柊一は、お前が育てようなものだろう」
「嫌だな。僕にあんなに大きな息子はいないよ。でも、ありがとう。僕にまで気遣ってくれて」
「ずっと大事に仕えてきた兄弟だろう。俺に大事な柊一を任せてくれて嬉しいよ」
「海里だから安心だ。そこで君たちさえよければ、人前結婚式のような事をしてみたらどうかな? 実はアーサーと丁度話をしていて」
そうなのか! ならば、話は早い。
「実は柊一に指輪をサプライズで贈りたいと思っていて、瑠衣なら彼の指のサイズを調べられるだろう」
|約束の指輪《promise ring》を贈りたい。
「なるほど。いいね、探ってみるよ」
「助かるよ。流石、瑠衣だ。そうだ……日本にいる間にちゃんと墓参りをしていけよ」
「……実は今日アーサーと一緒にしてきた。僕はもう日本には戻ることはきっとない。だから今回の旅で悔いがないようにしたくてね」
なんだか……切なくなることを言うんだな。
「そんな寂しい事言うな。いつでも戻ってくればいい。お前は生粋の日本人
だ。絶対にまた恋しくなる」
「ふっ……海里だけだよ。そんな風に言ってくれるのは」
「馬鹿、俺だけじゃないだろう。柊一も雪也くんも同じ事を思っている」
「ありがとう。そうだね。もう彼らは僕の肉親のような存在だよ。アーサーと離れた13年間は辛い時もあったが、柊一さまと雪也さまと出会えたお陰で毎日が生き生きとして、あっという間だった」
瑠衣の手をそっと握りしめてやった。
「今度の幸せは、絶対この手から手離すなよ。溢さないようにしっかり掴んでおけよ」
「わかった」
ずっと不運で冷遇されてきた異母弟の幸せを、願わずにはいられない。
****
「瑠衣、瑠衣、瑠衣ちょっと来て」
「なんです?」
海里と別れて屋敷に戻ると、雪也さまが悪戯な笑顔で僕を手招いていた。
机の上に手を乗せるように指示される、なんの遊びだろう?
「ちょっとここに指を置いて」
「なんです?」
「ちょっとしたゲームだよ」
「?」
「よしっ、もういいよ」
細く切った紙を左手の薬指に巻かれて何か印をつけて、すぐに外された。
何のゲームか思い当たらなくて首を傾げていると、アーサーが近づいてきた。
「お帰り、瑠衣。海里は何の用事だった」
「それが、あっ向こうで話します」
「そう、あぁ雪也くんありがとう」
「いーえ!」
いつの間に二人は仲良くなったのか、すっかり意気投合していた。
雪也さまは嬉しそうに部屋を出て行かれた。
どうやら柊一さまの部屋に向かっているようだ。
「瑠衣、疲れていないか」
「疲れていますよ」
「どうして?」
わざと聞かれているのだ。
アーサーが背後から僕の腰に手をまわし、甘えてくる。
「それは……」
「ちゃんと言って」
唇に指を這わされると、心拍数が上がってしまう。
「それは、あなたがしつこく、明け方まで僕を離さないから」
「よく言えました」
「もうっ」
「昨夜の君、最高に色っぽかった」
耳元で囁かれ、ゾクゾクする。
「瑠衣、今日は墓参り大変だったな。俺は君の事、まだまだ知らないと痛感したよ」
「知らなくていいです」
それが本音だ。
「悲しい瞳だ。分かったよ。これ以上は詮索しない。その代わりこの先は俺と幸せになることだけを考えてくれ」
「アーサーこそ、もう病気になったりしたら、許しませんよ」
「うん、心配かけた」
「心配で堪らなかった。不安で仕方がなかった。僕を置いて行かないで」
「あぁ最後まで一緒だ。日本で過ごす時間を大切にして、海里と柊一くんの結婚式をふたりで見届けよう」
「そうしたいです」
僕は振り返り、アーサーと唇をぴたりと重ね合った。
「今宵も君が欲しくなる」
二人の声も重なりあった。
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