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花の蜜 34

 今日は朝からアーサーさんの東京見物のために、ハイヤーを頼んでいた。 「さぁ行こうか」 「あの……瑠衣は?」 「あぁ彼はまだ眠っている」  アーサーさんはおどけた様子で、僕たち兄弟にウインクして見せた。  僕と雪也は顔を見合わせ、二階の瑠衣が泊まっている角部屋を見上げた。  カーテンが閉まったままだ。  朝食も食べていないし……大丈夫だろうか。 「瑠衣が起きてこないなんて珍しいです。もしかして具合が悪いのでは。このまま置いて行っても……大丈夫でしょうか」 「ふっ疲れて眠っているだけだから、大丈夫だよ」 「でもやっぱり、一度見てきます」 「えっ! おいおい、ちょっと待て」 「兄さま? あの、その、大丈夫じゃないですか」 「いや、顔を見てからでないと安心して外出出来ないよ」 「あーあぁ」  アーサーさんが大袈裟に天を仰ぐのも無視して、僕はもう一度玄関の鍵を開けて中に入り、二階の階段を駆け上がった。  雪也はポカンと立ち尽くしていた。 「……瑠衣?」  瑠衣は眠っているのか、ノックしても返事がない。  誰よりも早く起きて、熱い紅茶を持って部屋にやってくるのが僕の記憶する瑠衣だから、10時になっても起きて来ないなんて……余程具合が悪いのではと心配してしまうよ。 「……入るよ」  扉を開けると、部屋が暗くて中の様子がよく見えなかった。  なんだろう。  とても濃い匂いがするような……甘美な香りに良いそうだ。  僕はそっとベッドに眠っている瑠衣に近づく。  その時点でこの部屋にはセミダブルベッドが二台並んでいるが、そのうちの一台が全く使われた形跡のないことに気づいてはいた。  あの日海里先生に口づけされながら聴いた……ふたりが奏でる音楽を思えば……納得なのだが、僕の想像力が追いついていないことを痛感した。  ナイトランプをそっとつけて、灯りにぼんやりと照らされた瑠衣の顔をのぞき見る。  俯せに眠っているので、ちょうど横顔が見えた。  ハッとした。  瑠衣はもういくつになったのだろう。  30歳はとうに越えているのに、驚く程美しかった。    瑠衣……君はとても綺麗だね。  目を瞑っていても分かる……少し疲労感の漂う顔。  白く滑らかな頬にかかる、艶めいた黒髪。  熱を持ったように紅潮した腫れぼったい唇に、長い睫。  ほっそりとした白い首筋の下、肩の上位に斑な赤い痣を見つけた。 「あれ?……この赤いのって何だろう?」  これは……痣……ではなくて、あっ……  沢山の愛撫の痕が、浮き上がっているのか。  細い首筋から肩下はどうなっているのか気になって……そっと布団を少しだけ捲ると、肩甲骨が浮き出ていた。 「えっ!!」    まさかっ……何も着ていないの?  海里先生ならともかく、瑠衣が裸で眠っているのは想定外だったので、つい大きな声を出してしまった。 「ん……アーサー? もう出かけるの?」  しかも瑠衣が聞いたこともないような色っぽい声を出すものだから、ますます驚いてしまった。 「瑠衣……っ」 「えっ! え……柊一さま?」  瑠衣が僕の声を受け、驚いたように飛び起きた。    今度はしっかり覚醒したらしい。 「すみません、寝坊しました。今すぐ起きます」 「わっ! わっ! ちょっと待って」    慌てて僕は瑠衣の肌色の躰に、白いシーツを巻き付けた。  その時点でようやく瑠衣も自分が裸のまま眠っていたことに気が付き、顔を見たことがない程、赤く染めた。 「あっ……あ、あ……すっすみません! このような見苦しい姿を見せて」  瑠衣はその場にしゃがみ込み泣きだしそうな程、動揺していた。  アーサーが僕を止めた理由が、やっとわかった。 「ごめん……野暮なことをしてしまった。情事の後の寝室に入るなんて」 「じょっ情事って……柊一さま……」 「あぁ大丈夫。裸なんて森宮さんで見慣れているから」 「えっどういうことですか! 海里はまだ手をつけてないって言っていたのに」  瑠衣が血相を変えた。 「えっ?あっ違う!そうじゃなくて」 「柊一さまには……ちゃんと手順を踏んでいただきたいのですよ」  裸の躰にシーツをぐるぐるに巻き付けた瑠衣に、散々お説教されてしまった。  でも……その姿では、説得力がないような。  長年僕に仕えてくれた執事の瑠衣は、もういないのかも。  瑠衣が人間らしく恋を謳歌しているのを感じられ、気恥ずかしかったが、何だか嬉しかった。  そして僕も近い将来、森宮さんの手によって裸に剥かれてしまうのかと思うと、少し怖い反面……胸も高鳴った。  もう情熱の炎は……僕の躰の中で燃え始めている。   **** 「お帰り、柊一くん」 「……」 「その分じゃ濃いレッスンを受けたようだね、くすっ」  アーサーさんに笑われ、気恥ずかしかった。  雪也はもう車に乗り込んで座っていた。 「兄さま、早く、早く~」 「う、うん分かった」 「瑠衣は元気だった?」 「沢山叱られましたよ」 「うわっ、可哀想に。だが……俺も帰ったら同じ目に遭いそうだ。ははっ」 「くすっ、さぁ行きましょう。瑠衣を驚かせるアイテムを買いに」 「いいね。瑠衣の澄ました顔を崩すのが趣味だよ」  にやりと笑うアーサーさんを乗せた車は、まっすぐに銀座へと向かった。

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