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花の蜜 38
浅草寺の境内は、凄い人混みだった。
アーサーさんと森宮さんの背が高いお陰で、目立ち、何とか迷子にならずに済んだが、雪也が少し疲れてしまったようだ。
僕が気付いた時には、少し息苦しそうにしていた。
「雪也、大丈夫か。少し疲れたね」
「……ごめんなさい」
「心配しなくていいよ。向こうで少し休もう」
すぐに二人も雪也の様子に気が付いてくれ、参道から抜けてくれた。
「どれ? 雪也くん、手を出して」
森宮さんが手際よく雪也の脈を測って診察をしてくれた。
医師としての眼差しが、凛と光る瞬間が好きだ。
今までだったら一人でオロオロする場面なのに、本当に心強い。
こんなにも素晴らしい人と、間もなく共に暮らせるなんて、まだ夢のようだ。
「脈は大丈夫だ。だが少し疲れたようだな。休んで水分を取ろう」
「はい、あの……よかったらお二人でお参りして来て下さい」
「だが、こんな道端で待たすわけには……今日はとても暑いし」
「大丈夫ですよ。あのお店に入って待っていますので」
丁度僕たちが立っている向かいに、名の知れた甘味処を見つけた。
「そうか、それなら安心だな。海里、悪いがお参りに付き合ってくれるか」
「まったくアーサーは変な所で臆病だな」
「ははっなんとでも! しかしまだまだこの国を訪れる西洋人は少ないな。さっきから悪目立ちしているようで、どうも居心地が悪い。なぁ頼むよ。カ・イ・リくん!」
「やれやれ、まるで大きな赤ん坊だな」
「言ってろ!」
少し甘えた様子のアーサーさんに、森宮さんは呆れ顔だった。
アーサーさんと森宮さんは|腹心の友《a bosom friend》のようだ。
心から理解しあえる友人って素敵だな。
森宮さんが大学生の時に、英国留学先で知り合ったそうだから、もう10年以上の付き合いになるのか。
彼らは青春時代を共に過ごした仲だ。
僕にはそういう友人がいないから……少し羨ましい。
思えば、大学時代は必死だった。遊ぶ余裕もない程、勉学や帝王学に追われていた。今となってはまるで両親と早くに死に別れる事を暗示していたようで寂しくなる。
父からは様々な事を学んだが、もっと一緒にいたかった。そしてもっと親子の会話もしたかった。何もかも中途半端終わってしまったので、後悔が募る。
「柊一聞いてる? いいかな」
「あっはい」
「何か不安でもあるのか」
「いえ、大丈夫です」
アーサーさんと森宮さんの友情に嫉妬したとは言えない。だから明るく努めた。
「柊一の所にちゃんと戻ってくるからな。俺の居場所はいつだって君の隣だよ」
「……はい」
何もかも見通されているようで恥ずかしくもなる。でも同時に嬉しい。
「10分で戻る」
「はい!楽しんで来て下さい」
二人には雪也と甘味処に入る所まで、しっかりと見届けられた。
「兄さま~どれも美味しそうですね」
「うん、好きなものを食べるといいよ」
「白玉あんみつにしようかな。それともアイスクリームも美味しそうです」
「クスッゆっくり選んでいいよ」
まだまだ雪也は幼い。
なかなか決められないで百面相をしている様子を微笑ましく見守った。
「ゆっくり選んでいいよ。僕は化粧室に行ってくるから」
「あっはい」
化粧室内で、手を洗い汗ばんだ額をタオルで拭うと、鏡に幸せそうな顔が映っていた。なのに急にあの日……ホテルで中年の男性に襲われた時の恐怖を思い出してしまった。
森宮さんに救い出され家まで送ってもらい、こうやって鏡を覗き込んだ時、自分の顔色に驚いた。ひどく焦燥した顔が映っていた。本当に疲れた顔をしていて、あんな屈辱……雪也にだけは知られたくないと思った。
さっきから何だか落ち着かないな。
先ほどからチラチラと感じる嫌な予感は、僕の後に化粧室内に入って来た人物と鏡越しに目が合った時に、すぐに理解した。
「やぁ冬郷、また会ったな」
目の前に立ち塞がるのは、かつての同僚の二人組だった。
どうして……こんな場所で!
壁際にじりじりと追い詰められる。
かつては共に仕事をした相手に嫌悪感が募る。
「さっきからお前たち随分目立っていたな。連れがいなくなるのを、ずっと待っていたぜ」
「冬郷、お前、この前は散々な目に遭わせてくれたな。あの後会社は潰れるし、警察に連れて行かれるしで、大変だったぜ。だから、その相変わらず綺麗な躰で落とし前をつけてもらいたくてな」
「や……っ、やめろっ」
「静かにしろ。なぁ……あっちに座っているのはお前の大事な弟だろう? あの子……可愛い顔がお前とよく似ているな。お前が断るのなら弟に代わってもらってもいいんだぜ」
「や……やめろ! 弟には手を出すな」
「じゃあ一緒に来るな」
「……」
何てことだ……こんな風に隙をついて現れるなんて。
まさかずっと付けられていたのかと思うと、ぞっとする。
「知っているか。浅草寺の裏手には『吉原遊郭』の名残があるんだぜ。いい歓楽街になっていてな~冬郷みたいな華奢な男を好む奴が待っているぜ」
突然、胸を弄られスーツの内側の長財布を奪われた。
「へぇ~前より持っているな。これももらっておくぜ!全部奪って滅茶苦茶にしてやる! 」
もうっ──やめてくれっ、いやだ。
もう汚さないでくれ……これ以上僕の躰を。
悲痛な声を心の中であげ続けた。
騒ぐに騒げない悔しさに涙が滲む。
幸せはすぐ近くまで来ているのに、また……すり抜けてしまうのか。
森宮さんっ──森宮さん!
助けて!!
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