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花の蜜 41

 本当はもどかしかった。  耐え難い時間だった。  あの日ホテルの一室に卑猥な目的で連れ込まれてしまった柊一を、もっと早い段階で助けてやりたかったという後悔の念が、いつまでも胸の奥底に渦巻いていた。  今回だってそうだ。  証拠を掴むためとはいえ、また柊一に同じような恐怖を味わわせてしまうんて、俺はなんと不甲斐ないのか。  柊一は必死に耐え、辛抱強かった。  ちゃんと瀬戸際で助けられたのに、俺がいつまでもこんな暗い顔をしていては駄目だ。 「森宮さん、どうされましたか」 「君は、本当に大丈夫なのか。もう心は落ち着いているのか」  我慢できずに、とうとう聞いてしまった。すると彼は不思議そうに俺を見上げた。 「どうしたんですか、僕ならもう大丈夫です。何も、何もなかったのですから」  だが、作ったような笑顔の奥に、柊一の哀しみが見えた気がした。 「柊一もう我慢しなくていい。俺は悔しかった。あの時だって今日だって……悪意に満ちた薄汚い手で君に触れる奴を殴り倒したくなった。君だって同じ気持ちでは」  柊一は、はっとして息を呑んだ。 「違います、大丈夫です。あんなの……慣れているし」 「そんなはずはない。慣れる事ではない!」 「森宮さん……どうしたのですか。何故そんな風に?」  柊一の唇は戦慄いていた。  ここが外でなかったら、俺たちだけの世界だったら、今すぐ口を塞いで君を愛し、心の奥底に溜まった恐怖を引きずり出してやるのに。 「俺は柊一を守れなかった」 「違います。僕が油断していたから。いつだって僕が不甲斐ないのです。でも助けてもらいました。森宮さんが傍にいてくれるから、あなたがいるから、何度でも立ち直れるのです」  夕焼け空に感極まった柊一のすすり泣きだけが、広がった。    俺と柊一の心の葛藤を、皆、静かに見守ってくれた。  やがて瑠衣が重い口を開く。 「海里がいてくれてよかった。一時の救いではなく、永遠の救いを……君は柊一さまにもたらしてくれている」    アーサーも続く。 「そうだ、瑠衣の言うとおりだ。お前たちはよく我慢しあった。頑張った! 偉かったぞ」  雪也くんも聡い子だ。兄に何があったのか大体の察しはついているようだ。 「兄さまも海里先生も、どうかご自分を責めないで下さい。怒りや嘆きよりも、今ここにこうして皆でいられることを、どうか喜んで下さい」  三者三様の励ましは心強い風となり、俺たちと柊一の恋を後押してくれる。  出航は間もなくだ。 「心強いのです、森宮さんの存在が」 「俺もだ、君といると安らげる」  軽く抱擁しあって、お互いの存在を確かめ合った。 **** 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。よろしければ浴衣の貸し出しサービスがございますが、いかがいたしましょう」  屋形船の待合所に着くと、粋な提案を受けた。  柊一さまはきっとお召し物を着替えたいのでは。  あの汚らしい男に触れられた服は、正直もう見たくないだろう。  だから皆で浴衣を借りる事にした。  アーサーは僕の気持ちに敏感なので、すぐに店員にチップを握らせ、柊一さまの着替えの服を買いに行かせてくれた。 「こういう時の君は、驚くほど機転が利くな、英国でも僕の着替えを知らないうちに用意して」 「ははっあの時か。帰り道、困らなかったろう?」 「……あれは君が僕の服をビリビリに破いたからだ」 「うっ、痛い所をつくな」 「でも助かるよ。ありがとう」 「瑠衣を喜ばせるためなら、なんでもする」 「静かにっ、ここは外だよ」 「そろそろ我慢の限界なんだが」 「それは、揚げたての天ぷらで我慢してくれ」 「つれないな」  皆で浴衣の着付けをしてもらう。 「へぇ美しいな。俺はこれにしよう」  アーサーは江戸中期からなる伝統的な黒縞の浴衣を選んだ。浮世絵でも、粋な男性が黒縞を色っぽく着こなす風情が多く描かれているものだ。  英国人の彼に、純和風の浴衣柄のアンバランスさが堪らなく良かった。 「It's beautiful.」  海里は赤紫に濃紺の帯という華やかな浴衣を選んでいた。  参ったな。こんな鮮やかな色合いが似合うのは君だけだよ。日本人と西洋人の血が混ざった独特の甘く華やかな顔立ちと相まって、壮絶な色気だ。現に柊一さまも頬を真っ赤に染めているよ。 「海里、次は俺達の恋人の浴衣を選ぼうぜ」 「あぁそうだな。俺の柊一は清楚で可愛いから……」 「瑠衣の楚々として美しさには……」 「ちょっとお静かに」  場が一気に和みだし、昼間の事件の重苦しさが、徐々に薄まっていく。  こうやって皆で協力し、辛い記憶を自然に消していけばいい。  無理せずに、和むことで生まれるしあわせで、そっと覆いつくせばいい。  そう願い……静かに見守った。    

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