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花の蜜 47
「アーサー、まだ起きていたのか」
「お帰り、執事さん」
「そんな言い方はよしてくれ……君に悪いよ」
「いいんだよ……瑠衣。この屋敷で過ごせる時間はもう残り少ないのだから」
「ありがとう、君は優しくなったな」
「ふっそれは前からだろう?」
アーサーは寝間着姿でベッドボードにもたれ、分厚い本を読んでいた。
「何を読んでいる?」
「あぁこの屋敷の書庫は充実しているな。よくある『おとぎ話《Fairy Tales》』を借りてみたよ」
「どれ?」
「これさ、まるで海里と柊一くんのような王道な展開で、途中でやめられなくなってしまってな」
「あっこれは……」
これは柊一さまが幼い頃大好きで、何度も読んで差し上げた本ではないか。あの日、おとぎ話を卒業すると誓った柊一さまと、棚の上に隠したはずなのに、いつの間に……
でも本当に懐かしい。いつも柊一さまに読み聞かせながら、密に僕自身も夢見ていた物語だった。
「なぁ瑠衣、この騎士は俺に似ていないか」
「そうかな?」
「おいおい、似ていると言って欲しいよ。いい子で待っていたのに」
「いい子って、くすっ」
「今日は何もしないよ」
「アーサー?」
僕を布団に誘ったアーサーの瞳は、慈愛に満ちていた。
「なぁ瑠衣……柊一くんには両親がいない上に、どうやら頼るべき親族もいないようだ」
「そのようですね。皆、手のひらを返したように……奪うだけ奪って、ご兄弟の事は放置してしまったようです。本当に口惜しいです」
「やはりそうなのか」
僕が傍にいたらそんなことさせなかったのにと悔やまれる。だが、あの時英国に行かなかったら、アーサーの命がどうなっていたか分からない。
「瑠衣、もしかして後悔しているのか。俺があの時、小細工してまで……君を英国に呼び寄せた事を」
アーサーなりに、その事が蟠りになっているのかもしれない。
「いや……後悔していない。あの時自分の気持ちに正直になって決めたんだ。君の元へ行くと、その道を選ぶと」
「ありがとう。そんな瑠衣に……今日は誓いを立てるよ」
「何の?」
「日曜日まで、君に手は出さない」
「えっ」
「抱かないよ。品行方正に過ごすから安心しろ」
日本に来てからも夜な夜な僕の躰を開いた君が?
アーサーの言葉の真意が、すぐには掴めなかった。
「日曜日に、君は海里と柊一くんの結婚式をしてあげるつもりだろう」
「うん、君にも協力してもらってね」
「なら瑠衣は……今の柊一くんにとって一番近い身内なようなものだし、もう親代わりだ」
「あっそれで、日曜日まで」
「そう言う事さ。見た所、柊一くんは相当な初心だし、今日も嫌な目に遭って心が乱れただろう。落ち着いて当日を迎えられるように、君が補助してあげるといい」
「アーサー、嬉しい事を。本当にありがとう」
君が、こんなにも思い遣りの籠った言葉をくれるなんて。
嬉しくて嬉しくて、彼に自分から寄り添ってしまった。
優しく肩を抱かれる。
彼の心臓の音を近くに感じる。
「柊一さまは……10歳の時からずっと四六時中見守って来たお方なんだ。お父様はお仕事が多忙だったし、お母さんは病弱な雪也さんにつきっきりで……だから僕が時に父となり母となり、そして兄となり……お傍に仕えてきたから」
なんだか想いが募って、涙ぐんでしまった。
「悔いのないように見送ってやろう。彼らの門出を」
「そうしたい」
「じゃあもう眠ってくれ。執事の仕事は朝が早いのだろう」
「アーサー……君には負担をかけるな。すまない」
「ははっあとで倍にして返してもらうさ、この魅惑的な躰でね」
「もうっ──君って人は」
背中をすっと撫でられた。
たったそれだけでも過敏に反応してしまう躰になっていた。
「……今日は隣のベッドで眠るよ」
「お互いに、そうした方が無難なようだな」
****
深い眠りから目覚めると、もう朝だった。
すぐに部屋の扉をノックする音が聴こえた。
この音は……
「柊一さま、失礼いたします」
「瑠衣……?」
執事らしくパリッとした黒いスーツ姿に、前髪も後ろに撫でつけ、僕の屋敷で暮らしていた当時の姿で、瑠衣が颯爽と現れた。
何で……?
「柊一さま、おはようございます。よくお休みになられましたか」
「うん……」
「では、モーニングティーを」
なんだか夢みたい……まるで時が遡ったようだ。
扉の向こうには大勢の使用人が往来しており、執務室にはお父様が、サロンには雪也にピアノを教えているお母様がいるようだ。
でもそれは……もう遠い昔のことだ。
もう二度と戻らない日々だ。
それは、ちゃんと理解している。
「おこがましいのですが……私がおります。私が柊一さまと海里の幸せを見守らせていただきます。亡きご両親さまに代わって」
「瑠衣……うれしい事を」
過去は戻らない。
でも今ここに瑠衣がいる。
こんなにもあたたかく嬉しい台詞を言ってくれる。
森宮さんと間もなくこの屋敷で生活を共にする。
弟の雪也の病気もきっとよくなる。手術を受けられる。
だから、過去より未来を──
前を向いて歩くことが、今の僕に出来ることだ。
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