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花の蜜 50
6月10日 Sunday――
梅雨入り前の貴重な青空が、頭上に広がっている。
爽やかな空気、新緑の緑、咲き誇る白薔薇。
目映い木漏れ日が揺れる新緑の中庭《Atrium》に、朝から瑠衣がテーブルや椅子を倉庫から出して並べてくれていた。
お父様やお母様がいらした頃、我が家のテラスではいつもお茶会や園遊会が開催されていた。当時瑠衣はその設営の指揮を執っていたので、手慣れている。
「瑠衣、ありがとう」
「いえ、お安いご用です」
瑠衣がよく糊の効いた真っ白なテーブルクロスを、長方形の大きな机にかけながら、微笑んでくれた。
綺麗だな、瑠衣……
まるで花嫁さんがつけるベールのように、テーブルクロスが爽やかな風にはためいていた。
今日の名目は、園遊会《Garden Party》
密かに計画しているのは、親愛なる瑠衣の結婚式《Wedding》
アーサーさんとの門出を、僕と雪也、そして海里先生で祝うのだ。瑠衣の相手のアーサーさんには事前に事情を話し、二人の結婚指輪も準備されている。
午後の到来が、待ち遠しいよ。
「瑠衣、ここは任せても?」
「はい。柊一さまは?」
「厨房でスコーンを焼いてくるよ」
「楽しみです」
森宮さんのご実家のホテルと契約を結んでから、平日はレストラン経営の専門知識を学んだり、菓子作りの基本を専属菓子職人から学んで来たので、だいぶ手際よく作れるようになった。
冬郷家秘伝のレシピは、僕の母の味だ。
「あ……ピアノの音色……」
厨房にほど近い場所にあるサンルームから音楽が漏れ出し、合間合間にまだ声変わりしていない雪也の高く澄んだ話し声が聞こえてきた。
雪也はアーサーさんにすっかり懐いたな。
ふぅん、この曲はアーサーさんが弾いているのか。
エドガーの『愛の挨拶』か。
確か作曲家が大きな支えとなった女性に、結婚前に捧げた曲だったはず。
Salut d'amour……愛の挨拶は、今日という日に相応しいメロディ。
続いて、少したどたどしいピアノの旋律が届いた。
「わっ、雪也がピアノを弾くなんて、何年ぶりかな」
病弱な雪也は幼い頃から、母にピアノを習っていた。だが母が亡くなってからは、母を思い出して辛いと弾くのを辞めてしまった。
「懐かしいメロディだ」
小学生の頃、雪也が好きでよく弾いていた童謡だ。
確かタイトルは『にじ』。ピアノに合わせて、お母様の優しい声と雪也の幼い声が調和して、僕はソファに座って本を読みながら、その和やかな光景を眺めていた。
※
……
ラララ にじがにじが 空にかかって
きみのきみの 気分もはれて
きっと明日は いい天気
……
僕の好きな曲でもある。
両親がある日突然亡くなり、僕は突然、土砂降りの人生を傘もなく歩むことを余儀なくされた。そんな中で森宮さんとの出会いは、雨雲が去り虹が出た空のように素晴らしいものだった。
嫌なことや辛いことがあっても、いつかは晴れる!
そんな希望が溢れる曲で、聴いていると元気が出るよ。
まさに今日の僕の気持ちだ。
「柊一さま。準備が整いました」
「あとは森宮さんが到着したらだね」
「はい、そうですね」
「瑠衣も着替えてくるといい。一緒にGarden Partyに参加して欲しい」
「ですが」
「僕の願いを聞いてくれ。君は、アーサーさんが用意してくれた黒い燕尾服を着るといいよ。きっと似合うから」
「……畏まりました」
「この先は僕の友人としてだ」
「はい」
間もなく森宮さんが、僕の家にやってくる。
彼の荷物は、一足先に届いている。
今晩から、この館に住んでくれる。
今宵……
この白薔薇が満開の洋館は、森宮さんと僕の家になる。
僕たちの人生を航海するための、船となる。
もう、間もなくだ。
【補足】
※ 出典……『にじ』作詞:新沢としひこ 作曲:中川ひろたか
本日お話に組み込みさせていただいた『にじ』という曲は幼稚園や小学校でよく歌われる曲で、とても素敵です。まるで雪也から柊一への贈り物のよう。
https://youtu.be/oPcqsUsKlCE
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