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花の蜜 51

「柊一さま、お待たせしました」    スコーンを焼くのに奮闘していると、黒い燕尾服を見事に着こなした瑠衣が厨房に入って来た。 「わぁ……やっぱりすごく似合うね」  瑠衣は本当は生まれ持った気品を十分に兼ね備えているのに、いつもそれを隠しているのだと、改めて気づいた。  こうやってアーサーさんが瑠衣のために仕立てた一張羅を着ると、どこかの国の貴公子のように品格がある。  アーサーさんには瑠衣の魅力がとうの昔から伝わっていたようだが……僕は最近になってようやく気付くという有様だ。  何故なら、僕の知る瑠衣は出逢った最初から人に仕える仕事をしていた。父の傍では有能な秘書として、僕たちの前では優しい執事として務めていた。  四六時中、個人的な時間など必要ない様子で、身を挺して仕事に励んでいた。  今となっては、幼心に不思議だった。  こんなに若くて綺麗な人が、仕事以外に何の興味もないなんて。  瑠衣がこの屋敷に雇われるまでの、彼の人生の軌跡は分からない。  ただここまでに知った事は、驚いた事に森宮さんとは異母兄弟で、彼とは英国留学時を共にしている。ただし森宮さんは大学へ瑠衣は執事養成学校に通ったそうだ。  いつかきっと瑠衣が語ってくれるだろう。  瑠衣が語るより先に、アーサーさんが語り出しそうだが……  ふたりの出会い……そして、今日に至るまでの物語を。  それはまた次回のお楽しみ。  いつかもう一つのおとぎ話に、きっと僕は出逢う日が来るだろう。  その日が待ち遠しいよ。   「柊一さま? そんなにじっと見ないで下さい」 「んーよく似合っているよ。でも髪の毛、もう少し自然な方がいいかも。執事の瑠衣はもう終わりだよ」 「はぁ……柊一さまからそんな風に言われるようになるなんて」 「ふふっ、今日の園遊会が楽しみだよ」 「そうですね。明日には英国に戻るので、私も楽しみたいです。っと柊一さまもお召替えを。洋服箪笥に薄いグレーの上品なスーツがありましたよ」 「あぁでも今日の僕は裏方なんだ。あのスーツは夜になったら着るよ」 「そうなんですか」  だって今日は瑠衣の結婚式だよ。  あいにくコックも女中もいないので、僕は動きやすい服装で、給仕する予定だ。でも夜になったら森宮さんを我が家に迎える儀式として、あの三つ揃えのグレーのスーツを着ようと思っている。 「さぁそろそろ庭に出ようか、きっと森宮さんも到着するだろうし」 「そうですね。行きましょう」 「……今日は瑠衣が主役だよ」 「何を言って?」  瑠衣は冗談として受け止めているようだが、本気だ。  20代の貴重な月日を、僕と雪也のために費やしてくれた瑠衣への贈り物が、今から始まるパーティーだ。  アーサーさんと瑠衣の人前結婚式だ。 ****  燦燦と木漏れ日がシャンデリアの光のように降って来る。  新緑の中庭《Atrium》に、6人掛けの長テーブルを出し、真っ白なテーブルクロス、その上には中庭の白薔薇をさした花瓶が用意されていた。  そこに冬郷家代々伝わる伝統柄……白い陶磁器にベリー柄の金縁の紅茶茶碗や、お皿を並べた。銀のスプーンやフォークも整然とね。  あとは秘伝のスコーンに、自家製の苺とブルーベリーのジャムを添えて……サンドイッチはもう出来ている。  アーサーさんも英国紳士らしく正統派の黒いタキシードを見事に着こなしている。あのポケットには、きっと瑠衣に贈る指輪を忍ばせているのだろう。  雪也は制服の白い長袖のシャツを着て、先にちょこんと椅子に座り、とても楽しそうにしていた。 「ところで……海里……どうしたのでしょうか。遅いですね」 「うん、どうしたのだろう。連絡もなしに」 「珍しく電話もしてこないなんて」 「……」  アフタヌーン・ティーの形式のパーティーは13時からを予定していた。なのに……時計の針はもう14時を指している。  一抹の不安が過る。 「……先に始めようか。何か急用が入ったのかも」 「そんな訳には……、そうだ、海里の家に電話してみましょう」 「うん」  今日の主役はアーサーさんと瑠衣だが、森宮さんと一緒に彼らの婚姻を見守りたかったのに、一体どうしたのだろう。  連絡もなしに、彼が遅れるなんて珍しい。  暫くすると電話をしに行った瑠衣が、戻ってきた。 「どうした? 森宮さんはいらした?」  瑠衣の顔色が冴えない。 「いえ、もう2時間程前に家を出たそうです」 「え……」  途端にさっきまで考えないようにしていた不安が過った。  あの日も……連絡がなかった。  お父さまもお母さまは、帰ってこなかった。  山の斜面で雨に濡れて車がスリップし、ガードレールに激突して……  こんな晴れの日に、そんな不吉なことを思い出すなんて……!! 「うっ……」  突然、恐怖心で息が出来なくなり、咽喉を押さえて蹲ってしまった。  すぐに瑠衣が飛んできてくれ、背中を擦ってくれた。 「柊一さま。大丈夫ですよ。きっと何か事情があるのです」 「でも……怖い、父さまや母さまも、そうやって帰って来なかった。二度と戻ってきて下さらなかったんだ! 瑠衣……どうしよう」 「柊一さまはあの時おひとりで事故の対応や葬儀と頑張りました。私は誇らしいです。そんなあなたが……でもあの日と今日は違います」 「うっ……」 「さぁ泣かないで。信じて下さい。海里は絶対に裏切りません。柊一さまにあんなに恋い焦がれているのだから」 「瑠衣……瑠衣が今日は傍にいてくれてよかった……わかったよ。そうだね……信じよう。信じるよ!」  アーサさんの流暢な英語に、僕は俯いていた顔を上げた。 「Look up the sky! (空を見上げてご覧!)」    あの日のように、雨は降っていない。    僕の頭上には、太陽が輝き、海のように真っ青な空が広がっている。  あのひと際大きな雲は、まるで船のような形をしている。  希望を乗せて、人生を航海する門出にふさわしい晴れやかな天気だった。 「兄さま。大丈夫ですよ。海里先生はきっともうすぐ見えます。だって空はこんなに澄んでいて、少しも禍々しいことはありません。きっととびっきりのサプライズを運んでくれますよ」  信じよう。  信じることで、僕の人生が変わるのなら!  やがて爽やかな初夏めいた風が吹き抜けると、白薔薇がさやかに揺れた。  まるで呼び鈴を押すように。  中庭のフェンスを飛び越えて、颯爽と現れたのは……  

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