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花の蜜 52

「兄貴、そろそろ行くよ」 「あぁ……今日だったのか」 「そうだ」 「何だか、その、悪かったな」 「いや、俺は最初から多くを望んでいなかった」 「そうだったな。海里……この先は、お前なりの幸せを掴め!」  家を出る前に兄貴の執務室に立ち寄り、別れの挨拶をした。    もともとこの家は……兄の物だったのだ。  兄の母が早くに亡くならなかったら、俺の母が後妻に入ることも、瑠衣の母が手籠めにされることもなかった。  最愛の人を若くして失った父は、悲しみの捌け口を間違えたのだ。    成長すればするほど、俺がこの家にいる価値を見出せなくなってきた。唯一良かったと思えることは、柊一の屋敷を傘下に加えてもらえたことか。  冬郷家は森宮グループの傘下に入ったが、柊一を役員にし、采配を振るえるように仕組んでもらったので、乗っ取られることはない。  聞こえは悪いが……最大限、俺は……俺の立場と価値を利用させてもらった。  兄貴……ありがとうな。そして、許せ……これが最初で最後の欲だ。  跡継ぎを残さない俺の事を……兄貴も理解してくれた。  俺がそういう意味でも永遠に兄貴の立場を脅かさないと理解したようで、柊一と道ならぬ道を歩むことに対して、口出ししなかった。  今年になってついに老衰で施設に入った父には、何も告げることはない。もう何を言っても理解できないだろうし。 「冬郷家にこのまま行くのか」 「あぁ」 「車を使え」 「いや、電車で……行くよ」 「そうか。冬郷家には絶対に口出ししない。経営権も全部柊一くんに任せた」 「兄貴、ありがとう。じゃあ」  兄に背を向け歩き出すと、背後から声を掛けられた。 「海里は今日……誕生日だったな。おめでとう……こんな形だったが、お前と逢えて良かったよ」  初めてかもしれない。  面と向かってそんな言葉。  36回目にして……  もう俺の荷物は先に送ってある。だから俺は本当に身一つで彼の家に向かうのだ。勢いあまってスーツ類もすべて送ってしまったので、早めに行き、着替えてからティーパーティーに参加しよう。  俺の鞄には、柊一へ贈る結婚指輪と愛用している聴診器だけが入っていた。  俺とペアだ。  これを今日君に渡し、俺は今日君を最後まで抱く。  そのつもりだが、いいよな。 ****  柊一の館へ向かうために、地下鉄を乗り継いだ時だった。  ドスンっと鈍い音。  悲鳴──  助けを求める声。 「誰かー!」  振り返ると、階段の下に、着物姿の老夫人が仰向けに倒れていた。  階段から落ちたのだ。  俺は慌てて駆け下りて、老婦人を揺り起こそうとしている通行人の女性の手を止めた。 「待て! 絶対に動かすなっ! 君はすぐに救急車を呼んで」 「はっはい」 「大丈夫ですか」 「う……躰が」  意識はある。  頭よりも身体を打撲しているようだ。 「私は外科医です。今から応急処置します」    気道の確認、呼吸の確認、脈の確認。頸椎から胸部、腹部、骨盤、四肢……んっ、骨折の所見あり。腰骨か、肋骨も何本から折れている。  そこに救急隊の到着。 「あっ、海里先生じゃないですか」 「あぁ君か。たまたま居合わせた。患者は何か所か骨折しているようだ。肋骨も心配だ」 「先生、すみません。救急車に同乗していただけないかと病院側から要請が……実は……今日は休日で人手が」 「……分かった!」  迷っている暇はなかった。  医師としての使命に走った。  転倒・転落事故死は、初動の判断が生死を分けるから、自分の判断に間違いないことを確かめるために、救急車に乗りこんだ。 **** 「海里先生、お疲れ様でした」 「あぁよかったよ。大事に至らなくて」 「そうですね。骨折はありましたが、海里先生が傍におられなかったら、素人判断で躰を動かし、もっと大変なことになっていたでしょうね」 「たまたまだ。たまたま……」  その時点でハッとした。  俺がどこへ向かっていたのか……    時計の針を見て、ギョッとした。家を早めに出たはずなのに、もう14時前じゃないか。  約束の時間を1時間も過ぎていた。  思い浮かんだのは、柊一の心配そうな顔。不安に押しつぶされそうな君の顔…… 「容態も安定したし、あとは引継ぎ頼むよ」 「はい。もう大丈夫です。ありがとうございます」  研修医上がりの年若い休日診療の担当医に、深々と頭を下げられた。  ロッカーで着替えて、シャワーを浴びて……といった一連の動作は今日はもう省略だ。まだ白衣のまま……聴診器もしたままで、俺はとにかく車に飛び乗った。 「白金まで急いで行ってくれ」  車の中で、走り出したい気分だった。  瑠衣もアーサーも雪也くんもついているから、大丈夫だと思うが……  それでもこんな大事な日に、君を不安にさせてしまったことに焦っていた。  柊一は両親を交通事故で亡くしている。 『約束した時間になっても……全然帰って来なくて……不安で不安で……遅くなっても帰ってくると言っていたのに』  両親との最期を語ってくれた君を抱きしめた時、絶対に約束の時間は守ろうと誓ったのに……  もちろん人命救助が最優先だが、もっと早くせめて電話の1本でも入れられたらよかった。連絡もなしに俺が現れない事に気を揉み、不安になったろう。 「お客さん、あと少しなんですが、この先渋滞みたいで」 「もういい。ここで降ろしてくれ。後は走っていく」  タクシーを降りて、俺はひたすらに走った。    白薔薇の屋敷に向かって、街を走り受けた。  初夏めいた爽やかな風を斬り、君の元へ駆けつけるよ。  一歩!一歩……君との距離が近づいていく。  正門から入る時間も惜しく、中庭へ直接入る近道を選んだ。    風に白衣が煽られて、まるでマントのようだなと自分の姿を見て思う。  柊一を守り抜く騎士でありたいという願いと、重なる!  中庭へ続くフェンスを……白衣を翻し、軽々と飛び越えた時  ほっとした表情で、俺を見つめる柊一と目が合った。  その瞬間……世界は薔薇色に染まった!      

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