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花の蜜 54
「さぁそろそろ海里も着替えて。柊一さまも、お召し替え下さい」
瑠衣に促され、ハッとした。
あまりに気が急いて白衣のまま飛び出し、聴診器まで首から下げている始末だ。
先日指輪を購入しに行った時は、念入りにシャワーを浴びて病院臭を消したというのに、今日は消毒液の匂いがプンプンしているじゃないか。
おいおい、俺としたことが……
思わず苦笑してしまった。
「ははっ、参ったな」
澄ました顔で社交界を闊歩していた俺は、もういない。
いや、もういらないな。
素顔を仮面で隠し、上辺だけの世界を生きていた俺は、もう消えた。
これからはこの屋敷で柊一と暮らし……もっと自由に、素のままに生きていくよ。
純白な柊一のように、自分に素直になりたい。
「森宮さん、あの……瑠衣の言う通り、せっかくなので僕たちも着替えましょうか」
「そうだな。アーサーはタキシードで瑠衣は燕尾服か。ふたりともバッチリキメているな。俺たちも負けていられないぞ」
「くすっ服装は勝負ではありませんよ。でも瑠衣たちに寄り添った姿になりましょう。僕はお母様が選んで下さった生地であつらえたスーツにします」
「そうだな。さぁ行っておいで、俺も後から行くから」
「はい。あの……森宮さんの荷物はもうお部屋に置いてあります。とても素敵な淡い色のスーツがありましたよ」
柊一はとても上品に可愛らしく笑っていた。
今日という日に相応しい、晴れやかな笑顔が眩しかった。
「では着替えてきますね。雪也も行こう」
「はい、兄さま」
俺も今日という日に向けて、それを着るつもりだった。
今となっては、手違いで先に送ってしまって、かえって良かったな。
道中、急患に遭遇し、着ていた服はすっかり汚れてしまったし、白衣のまま飛び出したので、病院のロッカーにかけたままだ。
ん……そういえば持ち物はどうしたっけ?
あっ財布以外、持っていない。
参ったな……俺としたことが。
柊一の姿が屋敷の中に消えたのを確認してから、頭を抱えた。
「どうした。海里」
「アーサ、あぁぁ大失態だ」
「ん?」
「柊一に用意した指輪を忘れてしまったよ、病院にさ」
アーサーにだけは、こんな風に弱音を吐ける。若い頃、散々お互いにやらかし、時に弱音も吐きまくった仲だからな。
「おいおい、君らしくない事を……でも、今の君らしいな」
「どういう意味だ?」
「昔の君だったら上辺だけを取ったろう。あの頃の海里は、どこか冷酷な所もあったからな」
アーサーが昔を懐かしむような目をする。
英国留学時代の事を言っているのだ。
「うっ……それを言われると恥ずかしいな、若気の至りでは済まされない事もしたのは認める」
「医師になる前の……英国時代のお前だったら怪我人がいても素通りしたかもしれないし、自分よりも他人を優先させるなんて……絶対にしなかったろう」
「おいおい自分本位だったのは認めるが、人命救助はするぜ」
「まぁ根は優しいからな。でもその恰好でパーティーには来なかったろう? 遅刻してでも着替えて、遅れたことも詫びずに悠然と構えたに違いない。オーデコロンの匂いをプンプン漂わせてさ」
「うっ」
もうそれ以上言うな。
俺の過去は、俺が一番よく知っている。
「まぁ……虐めるのは、これ位にしよう。海里、俺を頼れよ」
「アーサー頼むよ。指輪の件、どうにかしてくれ」
「わかった。ボディガードに取りに行かせよう。屋形船の間に柊一の洋服を買ってきたように、瞬時に対応してくれるだろう」
アーサーは指を鳴らしてボディガードを呼ぼうとした。
ところが……
「少し待って! その件に関して、僕の思いついた案も聞いて欲しい」
一部始終を聞いていた瑠衣が、もっと素晴らしい提案をしてくれた。
「へぇ……いいな。瑠衣の意見に賛成だ」
「俺もだ、柊一は、きっと喜ぶだろう」
おとぎ話は、こうやって続いていく。
柊一のために、新しい頁が書き加えられて。
とっておきの一場面か。
俺が演出してみせるよ。
愛しい君のために――
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