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花の蜜 57
「瑠衣……この鍵って、もしかして」
長年この屋敷の執事を勤め上げた瑠衣なら、確実な情報を知っているかもしれない。
「あぁこの鍵は、奥様がいつも肌身離さずお持ちになっていたものです」
「そうなんだね。お母様は事故に遭われる前に、箱根でこの秘密箱を手配して下さって……まさか、この中に忍ばせていたなんて」
瑠衣に告げると、澄んだ黒い瞳をじわりと滲ませた。
「そうだったのですね」
お母様は、何かを予感していたのかもしれない。
だからこれを秘密箱の中に入れて、僕に託したのだろうか。
とても不思議な縁を感じる。
今日というこの日、このタイミングで僕の手に渡るなんて。
「瑠衣、泣かないで……君の晴れの日に泣かすつもりはなかった。ごめん」
「すみません。私は涙脆くなりました。柊一さまは、あまり足を踏み入れたことはないでしょうが、この鍵は中庭の奥にある『|秘密の庭園《Secret Garden》』と呼ばれる場所への門扉の鍵です」
「なる程、昔、結婚記念日のお祝いをした時に一度だけ中に入れてもらえたよ。だから記憶は朧気だが、存在は知っていた」
白薔薇のアーチの下で、お父様とお母様が朗らかに微笑んでいた姿を思い出す。もういない二人を偲ぶと、僕まで泣いてしまいそうだ。
「お見合いで巡り逢ったご両親さまでしたが、相思相愛の仲睦まじいご夫婦でした。秘密の庭園で、よくおふたりきりで逢い引きされていました。まさか、この鍵が柊一さまに受け継がれていたなんて。最高の贈り物ですね。今から開けてみますか」
「いや。中に入るのはまだ取っておくよ」
「そうなんですか」
「うん、そうだな……来年、雪也の心臓の手術が無事終わったら、僕は『|秘密の庭園《Secret Garden》』で、今日の瑠衣のように改めて結婚式をしたい」
自分でも自然と口に出来た……『結婚式』という言葉。
だって本当に素敵だったから。
本当は、今すぐにでも僕もしたい。でも僕の大切な弟の雪也には、これから大きな手術が控えている。だからまだ手放しで自分の幸福だけを喜べないのが本音だった。こんな考え方はやっぱり堅苦しいだろうか。僕はいつまでたっても長男気質で、几帳面でややっこしい性格だと自覚している。
「参ったな。俺たちもこのまま結婚式をしてしまおうと思ったのに、本当に柊一はいつも……真面目で優しい子だね」
森宮さんの声が、いささか沈んでいた。
「森宮さん、すみません。でも誓約はしました。ここに誓って下さったので、今はそれだけでも十分です」
僕は慌てて左手の薬指を、右手の人差し指で、トンっと押さえた。
僕には見える……
ここに輝く|銀色の指輪《Silver Ring》
ここに感じる、森宮さんの愛。
温かな口づけの余韻が、まだ残っている。
「もう君には敵わないな。でもこれだけは。指輪は先に贈らせてもらうよ。結婚式は1年後か……そうか」
少し残念そうな森宮さんの様子に、少々心苦しくなる。
あなたに、そんな顔はさせたくない。
僕だって……
もう自由に、僕の躰に湧き上がる熱に素直になろう!
「はい……あの、でも……」
この先はアーサーさんと瑠衣、雪也の前で、口に出すのは恥ずかしい。
でもしっかりと伝えたい。
僕は背伸びをし、彼の耳元に口を近づけ、そっと囁いた。
「なので、もう……僕を先にもらってください」
「えっ……いいのか。それで」
「はい、今夜《Tonight》、あなたの誕生日《Birthday》に……僕を贈ります」
「なっ何てことを」
いつも冷静な森宮さんの顔は、瞬時に朱に染まり、今まで一度も見たこともない程の面映ゆい表情を浮かべていた。
「はっ、参ったな」
照れ臭そうな彼の顔は、人間味があって、とても素敵だった。
僕たちは今を生きている。
今出来ることをしていきたい。
I want to make love with you.
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