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花の蜜 58
いきなり柊一が、俺たちの結婚式は雪也くんの手術が終わった1年後にしたいと言い出したのには、正直がっかりしたさ。
確かにそれはもっともな提案だ。
俺も医師として、その気持ちは痛い程分かる。
必死にそう納得させようと思うが、心がせわしない。
心臓の手術を控えている雪也くんの存在が、どれほど君にとって大切なのかはちゃんと理解している。弟の手術の成功を見届けてから、自分も幸せになるという発想は、俺が好きな柊一らしい考えだ。
だがなぁ……
「参ったな。俺たちもこのまま結婚式をしてしまおうと思ったのに、本当に柊一はいつも……真面目で優しい子だね」
俺の心を反映したような浮かない表情になってしまったので、慌てて取り繕った。すると柊一は俺の心の機微を読み取ってくれたように、言葉を続けた。
「森宮さん、すみません。でも誓約しました。ここに誓って下さったので、今はそれだけでも十分です」
そう言いながら自分の薬指をそっと押さえて、甘美な微笑みを浮かべた。
俺の口づけの余韻と名残りを愛おしむように、はにかんでいる。
その時、柊一の細い指には、本当に|銀色の指輪《Silver Ring》が輝いているように見えた。
目に見えない愛を信じる……
柊一の横顔はどこまでも気高く、愛おしい。
だが、やはり我慢出来ないよ。
この先1年も君を抱けないなんて。
精神的な愛と肉体的な愛……
俺はこの先ずっとその狭間で葛藤するのか。
とても耐えられない──
せめて見えない指輪を現実に、古風だが契りの約束を現実に!
「もう君には敵わないな。でもこれだけは。指輪は先に贈らせてもらうよ。結婚式は1年後か……そうか」
俺も案外未練がましいただの男だと、ひそかに苦笑してしまった。
諦めきれない思いで呟くと、その後とんでもないサプライズが降ってきた。
「なので、もう……僕を先にもらってください」
柊一の台詞とは思えない積極的な申し出に、耳を疑ってしまった。
信じられない魔法の言葉《Magic Words》は続く……
「はい……今夜《Tonight》、あなたの誕生日《Birthday》に……僕を贈ります」
俺の誕生日だと知っていたのか。
いつの間に……
あっそういえば先日、雪也くんに聞かれたな。
悪戯っ子のように雪也くんが笑っている。
「海里先生、良かったですね!おめでとうございます」
「まったく君って子は」
猛烈に照れくさい。
常に俺がリードしないと動かせないと思っていた恋が、動き出す。
慎重だと思っていた柊一が、大胆に動いた。
予期せぬサプライズに、一体どんな顔をしたらいいのか分からない。
「瑠衣……俺、どんな顔している?」
「海里、いい表情だ。良かった……幸せになって、幸せにしてあげて」
まるで祈るように、瑠衣が呟いた。
そんな瑠衣のことを、アーサーが力強く抱く。
「俺たち、今宵はお邪魔だな」
「おい、揶揄うな。照れくさい……」
こんなにも心が揺さぶられる事があったろうか。
風の騒めき、樹々の騒めきに呼応するように……
俺の胸の内も……騒めいていく。
喜怒哀楽……
柊一と接すると、忘れていた感情が次々と動き出す。
俺たちは今宵……ついに躰を繋げる。
ひとつになる!
****
「では柊一さま、雪也さま、お元気で」
「瑠衣、もう一晩泊まっていけばいいのに」
「すみません。私の我儘で……お二人にお会い出来て良かったです」
柊一と瑠衣が名残りを惜しんでいる。
その日の夕方、俺たちが引き留めるのも聞かずにアーサーと瑠衣は、屋敷を去った。英国に帰国する前に、どうしても一晩過ごしたい場所があるとのことだった。
行先は聞かなかった。
ここから先は、もう二人だけの世界だ。
「瑠衣、お前もよかったな」
「海里こそ、僕たちお互いに幸せを掴んだね。どうか元気で……」
「Have a nice trip!」
「Bon Voyage!」
それぞれの恋路を、航海しよう。
俺の名は海里《カイリ》
海面上および航海上の距離の単位を意味する名をもらった。
長い旅になる。
人生という名の……
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