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その後の甘い話 『海里の幸せな日々』 夕・1
「海里先生、お疲れ様です」
「あぁ」
きわめて冷静に低い声で受け答えすると、何故かくすくすと年配の看護師に笑われた。
「まぁまぁ、ポーカーフェイスがお上手だこと」
「ん? 一体何のことだ?」
「いーえ、お幸せに!」
首を傾げながら更衣室で白衣を脱いでいると、また昼間の同僚がやってきた。
「お、今帰るのか。急げ、急げ!」
「お前、医局で何か余計なことを言わなかったか」
「言ったよ。どうやら森宮は新婚らしいとな」
「おい? 俺がいつ?」
「違うのか」
誘導尋問だと思いつつも、柊一の事で嘘をつきたくない。
「……違くはないが」
「だろう。最初から素直に言えよ」
「だが、何故分かった?」
「そりゃ気づくさ。指輪していただろ?そこに」
「ん?」
指差されたのは、左手の薬指だった。
「あれ? おかしいな。さっきそこに銀の指輪をしているように見えたのに」
「あぁ、そうか」
結婚指輪なら玄関先で雪也くんに預けたので、もしも同僚に見えたのなら、それこそ魔法だな。
俺は柊一に指輪を『解けない魔法』だと言ったが、もしかしたら魔法にかかっているのは、自分なのかもしれないな。そう思うと妙に楽しい気分になった。
まぁそれならば話は早い。
「そう言う事だから、当分お前とは飲みにいかない」
「おいおい、つれないことを。最初から尻に敷かれているようだが、大丈夫か」
「……どうとでも」
「一体どんな女なんだ。お前を堕としたのは」
「想像に任せる……じゃあな」
言い返す時間も惜しいので、聞き流すことにした。
それより、俺が尻に敷かれるだと?
それって『強い女の言いなりになる』という意味だろう?
奥さんに逆らえなかったり、奥さんに大変弱い男性のことを指して、表現される言葉だ。
思わず苦笑してしまった。
柊一とは真逆だな。
むしろ柊一には、俺をもっと束縛して欲しい位だよ。
急ぎ足で柊一と雪也くんの待つ白薔薇の屋敷に戻る。
門を潜って白薔薇の咲く車寄せまで歩いて行くと、二階の窓が、ギィィと音を立てて開いた。
人影が動いたので見上げると、柊一だった。
彼はパジャマにガウンを羽織り、俺を見下ろしてくれていた。
黒髪がサラサラと風に揺れ、今日一日ゆっくりとしたお陰で血色のよくなった頬は、薔薇色に染まっていた。
「お帰りなさい、海里さん……」
君の上品な微笑みが、俺の心を捉えて離さない。
白薔薇の花びらが風に舞い上がる。
君の元へ──
ここはおとぎ話の世界なのか。
流れる時間が違う──
「あぁ……ただいま」
「あの、もう下に降りても?」
「あぁ歩けるのならね」
「はい……」
「ゆっくりとだよ」
「はい!」
柊一は満面の笑みを浮かべ、窓辺から姿をサッと消した。
俺はわざとゆっくりと歩き、玄関を開けた。
するとちょうど緩やかな曲線を描く階段を駆け下りてきた柊一を見つけた。
「おいで!」
両手を広げてやると、柊一が胸元に飛び込んで来てくれた。
「海里さんっ──」
愛おしさと恋しさと……なんとも甘酸っぱい想いが込み上げてくる。
この気持ちをどう言葉に表現したらいいのか分からなくて……柊一を深く抱きしめ、その唇を奪ってしまった。
「ん……っ」
柊一も……
俺を求めていてくれたのか。
待っていてくれたのか。
少し……寂しかったのか。
自らの手を俺に回し、口づけを健気に受け続けてくれる。
切なげな表情を浮かべ、それでいて甘やかな吐息を漏らして……
「あっ……あの……」
「柊一、会いたかったよ」
「僕もです」
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