242 / 505
その後の甘い話 『庭師のテツの独り言』 25
「……遅いな」
「そう言えば、そうですね。くすっ」
地下のセラーにワインを取りに行っただけなのに、なかなか戻って来ないのが気がかりだった。だが柊一の弟は、いつもの事のように全く気にしていない様子だ。
「何かあったのかもしれないぞ。俺が様子を見てこようか」
「あっ、それはきっと無粋ですよ」
悪戯気に微笑む顔に、鈍感な俺でもピンと来た。
「ははっ、あぁそうか、そういう事か。参ったな」
「えぇ、多分そういうです。地下は絶好の隠れ家ですから」
「ふーん、君みたいに寛大な弟は、そうはいないだろうな」
思わず本音を漏らすと、弟は寛大な理由を教えてくれた。
「兄さまは……僕が小さい時から心臓が悪く病弱だったので、ずっと我慢されてきた人なんです。同時に家督を継ぐ者として厳しく育てられていました。そして父さまと母さまが急に亡くなった後は、自分を犠牲にしてまで僕を守って下さって……だから僕はお二人が仲良くされていると、手放しに喜んでしまいます」
なるほど。
柊一は『ずっと我慢して来た人』で『自己犠牲の人』か。
それを言うなら、俺が知る瑠衣もそうだった。
同じ使用人という立場でも、俺には自由があった。
給金もしっかりもらえ実家に仕送り出来たし、休みの日には自由に外に出掛けられた。師匠は厳しかったが情に厚い人で、息子のように可愛がってもらった。
でも瑠衣は籠の中の鳥みたいに学校と家を往復するだけの日々だった。放課後は、使用人として底辺の汚い仕事ばかり押し付けられていた。
新しい衣類なんて一度も与えられず、いつもサイズの合わない傷んだ服装で、寒い冬でも薄っぺらいコートで、とぼとぼと歩いていた。
元々は品のある美しい容姿なのだから、綺麗に整えれば良家の子息に見えるのにと、何度も思ったものだ。(のちに高貴な人の落とし子だと知り、納得したものだ)
「……瑠衣も苦労していた」
思わず漏らした暗い言葉を、柊一の弟は拾ってくれた。
「……テツさんは、やっぱり瑠衣の事が気がかりなんですね」
「あぁ、俺は……彼が幸せになった姿を見ていないからな」
「そのお気持ち分かります。僕は今、兄さまが幸せそうな姿を見る度に、ホッとした気持ちになれます。だからもっと見せて欲しくて……お二人が仲睦まじい程、嬉しいのです」
あぁその通りだ。俺も願わくば瑠衣が幸せになった姿を、この目で見て見たい。
「あぁそうだ! 瑠衣の写真があります……あの、ご覧になりたいですか」
「なんだって、もちろん見たい! 見せてくれ!」
「でも一つだけお約束をしていただけますか」
「あぁ」
「ここで見聞きした事は、外の世界とは少し違う『おとぎ話』なんです。秘密を守れるのなら」
「守る!」
「では海里先生と兄さまに、相談してみますね」
そのタイミングで、二人がようやく部屋に戻ってきた。
海里さんの手には赤ワインのボトルが握られており、柊一の頬は染まり、唇は赤ワインの色を映しとったように、熱を孕んでいた。
ふたりが地下のワイン蔵で何をしてきたかは一目瞭然だったが、俺も柊一の弟も、素知らぬふりをした。
「待たせたね」
「いえいえ。俺は雪也くんと仲良くなり、楽しく話していましたよ」
「へぇ何を話していた?」
「海里先生、それは内緒です!」
海里さんが問うと、雪也くんは小指を立てて俺を見た。
柊一が少しだけ眉をひそめる。
「雪也は、またそんな事を言って……客人に失礼だよ」
「雪也くんは悪戯な顔だね。でも年相応だよ、なっ柊一もそう思うだろう?」
「……そうですね、そうかもしれませんね」
「流石、海里先生! 兄さま、お許しありがとうございます」
「もう、雪也ってば、ちゃっかりして。くすっ」
「ははっ」
海里さんと柊一が、雪也くんを幸せそうに見つめている。
その光景に、俺の口角も自然に上がっていた。
そうか、これが君の言う、幸せか。
なるほど、なかなか良いものだな。
人のしあわせを、自分のしあわせのように感じられる。
そんな自分も悪くない。
瑠衣の事があってから、人間不信になっていたのかもしれない。
俺も……人に関心を持ってみたくなった。
「なんだか、テツさんまで幸せそうですね」
「……そうか」
「テツさん、今度は兄さまもお話に加えてくださいね」
「あぁそうしよう、君も一緒に」
「はい! じゃあ僕はジュースですが、みんなで飲みながら楽しくお喋りしましょう。賑やかなのは嬉しいです」
どこまでも、和やかな夜だった。
人と人の……温かい心の行き交う時間が、白薔薇の屋敷の中にはあった。
ともだちにシェアしよう!