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庭師テツの番外編 鎮守の森 13
「いい加減に離せよっ」
「いいからじっとしてろ。お前に見せたい場所があってな」
「なんだよ! これ以上、おれに構うなっ」
「……それはできない相談だ」
「なんで?」
「俺が構いたくなるからさ」
おれは今……テツさんに横抱きされて、屋敷の裏庭を駆け上っている。
逞しいテツさんは……男のおれの躰をいとも簡単に抱き上げてしまった。
あまりに信じられないことが起きているので、抵抗する言葉を見失った。
自分の足でなく、こんな風に誰かに優しく抱かれて空間を移動するなんて……おれは知らない!
あの日……手足をバタつかせて必死に抵抗したが、大人たちに押さえつけられ、社に押し込まれた経験ならある。
暗闇から逃げたくても逃げられない……立って歩けない程の激痛に苛まれた経験もある。
だが……これは違う! 全然違う!
おれを明るく広い場所に連れて行ってくれる。
テツさんに抱かれて裏山を上れば上るほど、視界が開けてきた。
この森宮の本家の屋敷は……なんて広い庭なんだ。
まるで故郷の山のようじゃないか。
幼い頃……俺がまだ人として自由に走り回れた頃に駆け上った山と似ている。
「ほら、ここだ」
「ここ?」
そこには何もなかった。
社があったらどうしようと実は怯えていたが、それは杞憂に終わった。
小高い丘には遮るものがなく、仰ぎ見れば澄み渡った秋空が、天高く見えた。
「いいだろう?ここ」
「あ……」
なんだろう……
おれはずっとこんな風に、ただ空を見上げたかったのかもしれない。
いつの間にか、おれの手はテツさんのシャツをしっかりと握りしめ、胸元に顔を寄せて、あたたかい命の鼓動に耳を傾けていた。
「降りてみるか」
そっと芝生に降ろされると、テツさんの鼓動と別れるのが名残り惜しくなってしまった。
湿った土とは違う、日光をよく浴びた健康的で瑞々しい土には、秋桜《コスモス》が揺れていた。
「ここは俺の庭なんだ」
「テツさんの?」
「そうだ。師匠がここだけは俺の自由にしていいと言ってくれてな」
「……」
「意味も分からず育てた黄色い秋桜……これはお前……桂人だったんだな」
「どういう意味だ?」
「『コスモス』は英語で『cosmos』と書くんだ。星が美しく並ぶ宇宙のことを『cosmos』と呼んで、花びらが整然と並ぶこの花も『cosmos』と呼ぶのさ」
突然、花の名前の由来を説明されても理解できない。
おれは……15歳から学校に通っていないから。
「あーごめんな、俺は口下手でうまく説明できなくて、つまり桂人と俺とこの秋桜がすっきり繋がったような気分なのさ」
テツさんは照れくさそうに、頭をかいていた。
「……秋桜はピンクだけかと思っていた」
だが、ここの秋桜は、全部黄色だ。
「これは『キバナコスモス』と言うんだ。俺はこの色が好きだ。一度根付くとこぼれ種でどんどん増える野性的な花で……その……桂人に似合うな」
「はぁ? 花が似合うと言われても、おれは男だ。嬉しくなんかない! 」
「あぁ……そうか、そうだよな。俺は言葉を知らないから、素直に感じた事だけを口にしてしまうんだ。気に障ったか……悪いな」
ちょっと待てよ。
そんな素直に謝られると、こっちが悪いみたいじゃないか。
なんだよ、テツさんって……
どうしてこんなに純朴で真っすぐなんだよ。
美しい黄色の秋桜は、好きな色だ。
故郷のひだまりみたいな色だから。
駄目だ、もう余計な感情は抱くな!
それなのに、おれ……さっきから少し変だ。
こんな感情、抱いている場合じゃない。
あたたかいものに触れてはいけない躰なのに。
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