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庭師テツの番外編 鎮守の森 21

 必死に明るく振る舞おうとしている桂人の姿が、切なかった。  湯船の湯気が揺らぐと視界が開け、背後から抱きしめた彼の背中に浮かぶ……無数の傷に気付いてしまった。    もう傷自体はとっくに癒えているのに、まるで背中に涙雨が降っているかのようだ。何本も何本も引きつれた線が痕となり残っていた。  どうした? 誰にやられた?  桂人……君の過去に何があって、何を目的にここにやってきた?  楚々とした外見からは想像出来ない、傷ついた躰の持ち主だ。  聞きたい事なら山ほどあるが、今は俺の腕の中の桂人自身が一番大切だった。 「そうだな。後で読んでやろう」  そこで脱衣所に人の気配がしたので、慌てて桂人から離れた。 「なんだ、テツか。珍しいな。夕食前に風呂なんて」 「……」 「ふぅ相変わらず朴訥《ぼくとつ》な男だな。飾り気がなく口数が少ないのはいつもの事だが、もう少し愛想良くしろよな。何年一緒に働いているんだか」 「……すみません」 「なんだ、新入りもいたのか。そういえば名前なんだっけ?」 「……そろそろ上がるぞ」 「……はい」  桂人を俺の背に隠すようにして、脱衣所から出た。  桂人の裸体は、同僚に見せたくなかった。  彼の痛々しい傷を見るのは、俺ひとりで十分だろう。 ****  雨に濡れた躰は、もう乾いていた。  先ほど突然泉のように湧いた甘い気持ちには、ギュッと蓋をした。  そうしなければならない理由なら、十分にある。  おれの躰は……おれの意志とは関係なく……この森宮家に捧げるのが最初から決まっている。  あんな仕打ちに遭っても尚、逃れられないのは何故だ。    遠い昔、先祖の代から生贄となる運命が受け継がれてきた悲しい血筋のなせる業なのか。おれの父はその呪縛から逃れるために婿養子になったと聞いたが、森宮の手は、どこまでも忍び寄ってきたという訳か。    脱衣場で作務衣に着替えていると、テツさんの熱い視線を感じた。    どこを見ている?   あぁ背中か……  湯船であれを見られたのか。  雨を背負っているのさ、おれは。  10年前、儀式の最中に女子《おなご》でない事が発覚し鞭打たれ、腱を切られ、命が奇跡的に助かった時、何度か逃げ出そうとした。だがその都度引き戻され、折檻された。  全てを諦め、社に閉じこもらざる得ない境遇に陥れられた。  積もり積もった束縛の痕は、無残で醜いだろう。 「テツさん、おれは大丈夫です。早く本を読み聞かせてください」 「……まずは食事を取ろう」  食後、テツさんが本を取り出し読み聞かせてくれた。  おれはテツさんのすぐ隣で、彼の肩に寄り添うように物語を聞いた。 『狐の嫁入り』という話は、我が身の境遇に重なるとても悲しい話だった。 「どうして……何もかも知ったのに、龍神に身を投じたのだろう。狐の娘を心から愛する青年が傍にいたのに」  テツさんが嘆かわしい様子で呟いたので、おれは答えた。 「それが運命さ。最初から決まっていた事には抗えないものさ」 「そんなことない!そんな悲しい運命は運命なんかじゃない。断ち切ってやりたい!」 「……テツさん?」  まるでおれ自身に言われているような、白熱した声を浴びた。 ****  それから数日後、またテツさんが他のお屋敷に行く日がやってきた。    おれは本当は心細かった。  また雄一郎さんに話しかけられたらどうしよう。また社の下見に行こうと誘われたら断れない。  中秋の名月……おれが穢される日は、刻一刻と近づいてくる。 「桂人……お前、ひとりで大丈夫か」  テツさんも先日の騒ぎが尾を引いているのか、不安そうにしている。だが、この人にいつまでも甘える訳にはいかない。こんなにいい人を巻き込みたくないのだ。   「何を言って……おれは大丈夫ですよ。いってらっしゃい」 「そうか……じゃあ、早めに戻るよ」  後ろ髪引かれる思いなのか、何度も振り返ってくれたので、おれは柄にもなく手を振った。  ありがとう。テツさん……誰かに気にかけてもらうことなんて久しぶりで戸惑うが、テツさんの真っ直ぐな気持ちは心地いいです。  おれは……こういう時しか素直になれないな。  するとテツさんは立ち止まり、顔を赤くしたかと思ったら、すごい勢いで戻ってきた。 「桂人、お前も一緒に行くぞ!」 「え?」

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