273 / 505
庭師テツの番外編 鎮守の森 29
「あぁ……海里さんですか」
カーテンの向こうに立っていたのは、海里さんだった。
低い声に一瞬、雄一郎さんかもと過ぎったが、桂人が怪我を負った事はまだ伝わっていないはずだ。何しろ冬郷家での出来事だったから。
だが万が一ここにやって来て、また先日のように異様な様子だったらと肝を冷やした。
「おっと……お邪魔だったか」
海里さんは俺と桂人の顔を交互に見て、決まり悪そうにボソッと呟いた。
俺も桂人も慌てて濡れた唇を手の甲で拭ったので、もはや自分から種明かしをしたようなものだ。
つい先程まで、病院のカーテンに隠れて互いの唇を、しっとりと重ねていた事を……
海里さんは桂人を覗き込むと、すっと医師の顔になった。
「桂人くん、大丈夫かい。あぁ意識ははっきりしているね。肋骨が2本折れた以外は奇跡的に無事だった。大量の木材の下敷きになったのに軽傷で済んで良かったよ。雪也を命懸けで守ってくれてありがとう。柊一も雪也も、君にお礼を言いたいと待っているので、後で連れて来るよ」
「……」
桂人は答えに迷っているようで、沈黙が重たい。
さっきの会話で少し見えて来ていた。
桂人の抱えている物が何か。
死に急ぐ桂人は近い将来……きっと暴走する。
だが俺はみすみすお前を死の淵に追いやったりはしない。
海里さんに相談してみよう。
森宮の屋敷内の事だ。俺が立ち入れない事でも、海里さんなら……
「それにしても海里さん。さっきはどうしたんです、随分低く暗い声だったから驚きましたよ」
「あぁ、ちょっと外にいいか」
「はい……桂人ちょっと待っていろ」
海里さんは俺を近くの診察室へ招き入れた。
桂人の前では話せない事なのか。
海里さんは入るなり深いため息を漏らした。
「どうかしたんですか。桂人に何か」
「あの子の背中を見たことがあるか」
「あっあぁ」
そのことか。先日湯船で見たばかりだ。嘘は付けない。
「あの酷い折檻の痕……その理由を……テツは知っているのか」
「いや、知らない。聞いても話さないだろう。それより桂人はただ俺の弟子になりに来たのではない。何か雄一郎さんと恐ろしい契約がありそうなんだ」
「兄貴と?」
「先日、雄一郎さんの様子が変だった……何かに取り憑かれているような形相だった」
海里さんは信頼できる人だ。だから藁にもすがる思いだ。
「……そうか。桂人を俺の所に連れて来てくれて良かったよ。あの傷は病院内で騒ぎにならないようにしたが、俺も心配だ。一度、兄貴を訪ねるよ」
「早く! 一刻も早く早くお願いします。取り返しがつかなくなる前に」
「分かった、何かありそうだな。さぁまずは病室に戻ろう。彼の元に付いていたいのだろう。さっきは間が悪くて悪かったな」
「なっ」
やっぱりお見通しか。
診察室を出ると目の前に、柊一と雪也くんが立っていた。
雪也くんは目を真っ赤にしてずっと泣いていたようだ。君が無事でよかったよ。心臓の手術前に何かあったら大変だ。
「テツさんごめんなさい。僕、少しでもお役に立ちたくて、兄さまより先に檸檬水を運ぼうと、余計なことをしました。僕を助けて下さってありがとうございます」
「テツさん、僕からもお礼とお詫びを申し上げます。僕のせいです。僕がちゃんと見ていなかったからです。僕を叱って下さい」
二人とも顔面蒼白で必死な形相だ。
「おいおい……そんなに自分を責めるな。これから気を付ければいい。いいかい? 雪也くんは作業場には近寄ってはいけないよ。お兄さんの言いつけを守っていれば、こんな事にはならなかっただろう」
シュン……と、しょげかえってしまった。
「はい。絶対にこれからは守ります」
「そして柊一は……そんなに自分を責めないこと」
柊一の苦渋の人生は海里さんから聞いた。どんなに苦労して生きて来たのか。何不自由のない生活から底辺に堕ちたと聞いている。今回のことも自分を責めて責めて……そういう性分なのだろう。
「テツさん……」
「テツ……」
俺の言葉に、海里さんと柊一は顔を合わせて驚いていた。
「さぁ桂人の所に戻りましょう。あいつは意外と寂しがり屋なんですよ」
「はい、直接お礼を言わせてください」
「もう一度診察して薬を出すよ」
「お願いします」
桂人の病室に4人で入り、カーテンを開けた。
「桂人、入るぞ」
ところが、ベッドの上は……もぬけの殻だった。
一体どこに?
何故だ……?
ともだちにシェアしよう!