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庭師テツの番外編 鎮守の森 30
テツさんと海里さんが病室から出たのを確認してから、おれはそっと起き上がった。
どうやら海里さんに、背中の傷痕を見られたようだな。だから、あんなに心配そうな顔をしていたのだろう。
もう潮時だ。おれがこれ以上テツさんの近くにいると、もっと悪いことを招いてしまいそうだ。あの白い世界に住んでいる、汚れなき兄弟をも巻き込んでしまう。
実際にそうだったじゃないか。おれが来た途端、あんな事故が起こるなんて不吉過ぎる。危うく雪也くんとテツさんが大怪我するところだった。
やはり……のこのこ来るんじゃなかった。
人並みに浮かれて……恥ずかしい。
こんなおれでも誰かの役に立つのかもなんて、一瞬でも夢見てしまった。
ギシリとベッドから降り立つと、背中と胸がキリリと痛んだ。
こんなの……おれにとっては、かすり傷だ。
強い衝撃を受けたのに肋骨が折れただけで済むなんて、皮肉だな。
あなたたちを守って死ねたらという、甘い願いは叶わなかった。
おれに残された道はだだ一つ。10年前に中断した儀式を続行するまでだ。
間もなく月が満ちていく──
儀式の日は、もう指で数えられる程だ。
『大丈夫ですよ、おれはちゃんとやり遂げます……』
心に住む……あの人に向かって話しかけた。
せめてその日が来るギリギリの時までテツさんの傍にいたかったが、これ以上は、未練が残るだけだ。
だから姿を消そう。
儀式の日まで……
テツさん、すみません。
おこがましいですが、テツさん、あなたに一瞬でも好いてもらえて幸せでした。
生涯に……たった一度位、好きな人と触れ合ってみたいと思っていました。
おれにはさっきの口づけが最初で最期になります。
「……ありがとうございました。おれ、あなたに惚れていました」
一礼して、姿をくらました。
誰にも見つけてもらえない場所に、堕ちていく。
自ら……
****
「桂人! いるのか」
病院のトイレ、待合室、屋上と、海里さんと柊一と手分けして探したが、どこにも桂人の姿はなかった。
「もしかして家に?」
森宮の屋敷に戻って、まっすぐに使用人棟に走った。
灯りはついていない。
鍵のかかっていない窓ガラスをガラリと開き中を確認するが、やはり姿はなかった。
ただ……黄色い秋桜が枯れていた。
もしかして……
淡い期待を抱き、一目散に俺の庭へと駆け上がったが、そこにもいなかった。
絡み合うように唇を重ねた濡れた残像だけが、枯れ葉の乾いた音と共に、ちらついていた。
「一体どこへ、どうして! 何故」
浮かんできたのは、後悔の念だ。
彼は確実に何かに怯え、何かに悩んでいた。
無理矢理にでも聞き出すべきだった。
くそっ──
やるせないぞ! こんなのは!
茂みがガサッと揺れたので振り返ると、海里さんだった。
「ここにも、いないのか」
「あぁ神隠しにあったかのように、どこにもいない」
「……俺は、今から兄貴に会ってくるよ」
「まさか桂人は……もう」
「縁起でもないこと言うな! 兄貴が何か知っていそうだ。だから聞いて来る」
確かに絶対に雄一郎さんと桂人にはつながりがある。
とんでもない何かが隠されている。
「あの、まだ雄一郎さんには桂人がいなくなったことは伏せておいてください。見つかってはいけない気がする」
「あぁ……そうだ。とにかく桂人がどこからやってきたのか。足取りから遡ってみよう。何かが分かるかも、何かに繋がるかも!」
「はい、頼みます!」
****
狭くて湿った暗い場所。
よく馴染んだおれの居場所だ。
ずっと暗闇の世界に住んでいた。
なのに一瞬でも光を求めてしまったせいなのか。
こんなに胸が苦しいのは。
だって知らなかったんだ。
心から大切に愛されるのが、あんなに心地いいなんて。
テツさん──
心配かけて、すみません。
おれ、あなたには何も残せない。
だけど、おれは……あなたを守りたい。
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