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庭師テツの番外編 鎮守の森 31
「兄貴、ちょっといいですか」
「ん? これは驚いたな。家を出てから少しも寄り付かなかった海里じゃないか」
「……すみませんね。夜分に」
「いや、構わないよ。なんだか私も今宵は胸がザワザワして寝付けなくてね。歳のせいかな」
大きな椅子の背もたれに躰を預け、静かに笑っていた。
だがこれは、平常通りの兄貴だ……
テツが言うように、何かに取り憑かれている感じではなかった。
「ははっ何、言って? でも少し疲れているようですね」
「あぁ……父さんの痴呆がかなり進んで、近頃は任される仕事が多くてね」
「兄貴がもう……実質この家の当主ですよ」
「そうなってしまったのか、とうとう、いよいよなのか。怖いな」
もしかして、この兄もまた何かに苦しんでいるのか。
痴呆で俺の事も覚束なくなった高齢の父は介護施設に入所したきりだ。
おそらく老衰でそのまま……
「もしかして……当主を引き継ぐ時、何かあるのですか」
「え?」
「あぁいや当主になるための儀式が何かありそうですよね。こんな古い家には」
「……お前……どうして?」
「兄貴は、柏木桂人《かしわぎけいと》という青年をご存じですよね」
その言葉に、兄貴は確かに反応を示した。
「……ん? 彼は、新しく契約した庭師だろう」
「それだけですか。兄貴、俺に何か隠していませんか」
「……海里には関係ない。お前はこの森宮の家の正当な血筋ではないだろう。それにもう家を出たんだし関わるな」
ふっ……正当な血筋でないか。
この言葉に、やはり俺も瑠衣と同じだと痛感した。
使用人として暮らした瑠衣のとの差は、母親の身分の差だけだ。
兄貴とは高校時代……瑠衣の事件があってから疎遠になったが、柊一の事では一定の理解と協力をしてくれたので見直していたのに、がっかりだ。
やはり、何か隠している。
「柊一くんは元気か」
「えぇその節はありがとうございます。中庭の件でも配慮してもらって」
「いや、冬郷の家は大事にした方がいい」
「何か関係あるのですか、冬郷家と森宮家は……」
「……別に何もない」
やれやれ……また、だんまりだ。
親父が痴呆になってしまう前に、どこまで兄に託せたのか。
そして、今……兄貴が抱えているものは何だ。
どこまでも暗く重たい物のような気がしてならない。
****
「海里さん! 何か分かりましたか」
「いや、だんまりだった」
「雄一郎さんの様子は?」
「今日は至って普通だったよ。意地悪だったが」
テツは暗い顔でがっくしと肩を落とした。
それもそうだろう。大切な桂人が行方をくらましてしまったのだから。
「じゃあ桂人の行方は。結局分からずじまいですか」
「まぁ今の所そういう事だ。正面突破は難しそうだな。おい、お前もよく思い出してみろ。桂人は……何か素性にまつわる事を話したり、何か持っていなかったか」
まずは、彼がどこから来たかだ。彼にも親御さんがいて、兄弟などもいるはずだ。必ず故郷と言うものがあるはずだ。
「あっ!」
「何か思い出したか」
「……桂人がここにやって来た時、契約書を持っていた。雇用契約のです」
「住所は書いていなかったか」
「書いてあったような気もするが、あの時の俺はそんなもんに興味なくて……桂人の名前を見ただけでした」
「契約書か。それはぜひ確認したいな」
だがあの兄の、あの剣幕だ。素直に見せてくれるとは思えない。
これは、一肌脱ぐか。
「ちょっと電話を貸してくれ」
「はい?」
「それと今宵は桂人の部屋を借りても」
ここに泊まって、兄貴の書斎に夜中に忍び込んでみるか。見当はついている。大事な書類はたぶんあの部屋の北側の戸棚の中だ。
「頼みます。どうか……助けてやりたいんです。あいつを」
「テツは本当に森の精霊と出逢ったんだな」
「はい。俺にもようやく海里さんの気持が分かりました、桂人が大切です。海里さんが柊一を大切に想うのと寸分も違いません!!」
素直だな。
ほらな、やっぱりテツは熱い男だ。
テツに愛された桂人は幸せ者だよ。
不幸を背負ったあの背中を癒せるのは、テツだけだ。
そう確信していた。
「柊一に電話をするよ。今宵は帰れない事をしっかり伝えておかないと、寂しがるからね」
「すみません。海里さん、恩に切ります」
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