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庭師テツの番外編 鎮守の森 32
「どうぞ、ここが桂人の部屋です」
「ここはずっとテツの部屋だったな」
「えぇ15歳でこの屋敷に来てから、俺はずっとここに住んでいましたからね」
「入るのは、久しぶりだ」
「海里さんはいつも窓からやってきましたからね」
「ははっ、確かにそうだな」
粗末な本棚と文机に布団が敷かれただけの、生活感のない質素な部屋だった。
枯れた黄色い秋桜が、悲しげに畳にはらりと散っていた。
まるで時がぴたりと止まってしまったように物寂しい気持ちが満ちてくる。テツが暮らしていた時は山のような植物の書物で埋もれて雑然としており、少なくとも生活感はあったのに。
「そういえば……テツは一度も故郷に帰らなかったな。たまに電話や仕送りはしていたようだが」
ほら見ろ。長年共に暮らしてきたテツのことだって、俺はよく分かっていない。こんな時はいつも……案外、人は他人の内情を知らないものだと痛感してしまう。
まして相手が隠そうとする深い事情なら尚更だ。知ることは難しい。
柊一の時だってそうだった。もっと遡れば瑠衣の時だって……俺はいつもタイミングが一歩遅く、彼らを辛い目や怖い目に遭わせてしまう。すぐ傍にいたのに何も出来なかったのが辛かった。
まして桂人……君は最初から傷だらけだ。
足の腱を切られた痕、背中に無残なの傷痕を持つ桂人の過去は、俺の想像を超える程に過酷だったはずだ。
傷の深さや治癒具合からも分かる。
容赦ない折檻を長年受け続けて、成長したと。
彼が自ら俺たちの前から姿を消した今、一刻も早く対処しないと大変な事になると、危険信号が灯っている。
彼はもう捨て身の覚悟だ。
何を起こすつもりか、何が起きるのか分からない。
夜が更けていく。
草木も眠る丑三つ時、俺は息を潜めて兄貴の書斎に忍び込んだ。
しかし長年住んだ屋敷で、こんな風にコソコソと闇夜に紛れて動き回る羽目になるとは……思わず苦笑してしまった。
(失礼しますよ。兄貴……)
兄夫婦の主寝室は、書斎から離れた場所にあった。しかもここにはいつも施錠していないのも知っている。
さてと重要な契約書類はこの棚だろう。
柊一と出逢った頃、兄のホテル業務を手伝っていたので、だいたいの書類の位置や部屋の配置は理解していた。だからすぐに目当ての『森宮家使用人・雇用契約書』というファイルを見つけられた。
この家で一番新しい従業員が、桂人だ。
「これだな」
頁を捲ると庭師として契約を結んだ『柏木桂人』の書類を、すぐに見つけられた。
住所は、出身地はどこだ?
持ってきた懐中電灯を照らし内容を確認すると、不思議な感覚に包まれた。
「ん? 秋田なのか……」
彼のきめ細やかな白い肌や顔つきから、きっと東北のどこかとは推定していたが……まさかな。不思議な縁を感じる。
急いでテツの元に向かおうと部屋を出て、ギョッとした。
兄貴がこっちに向かって歩いて来る。
まさか……見つかったか!
ヒヤリとして物陰に息を潜めると、兄貴はこちらを見向きもせずに、階段を静かに降りて行ってしまった。
こんな時間に一体……どこへ?
様子が変だ。目つきがおかしい!
寝間着姿にガウンを羽織り、使用人の勝手口から外に出てしまった。
俺は闇に紛れるように、その後を追った。
****
「あと何日ここで過ごせば……楽になれるのか」
窮屈で狭い場所で、もう仮死状態のようになっていくのを感じていた。
なのに……時折躰が無性に水を欲し出すんだ。
それを静めるのに難儀していた。
そんな時は目を閉じて、夢を見る。
甘くて潤いのある水をたっぷりと注がれた、あの雨の日の夢を――
「テツさん……」
彼の名を自然と口ずさんでいた。
乾ききった唇が、ピリッと音を立てた。
「会いたい……」
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