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庭師テツの番外編 鎮守の森 33
「兄貴、一体どこへ?」
兄貴は迷うことなく、使用人棟に入っていた。
その事にも驚いたが……立ち止まった場所に、もっと驚愕した。
そこは桂人の部屋だ! つまり……俺がさっきまでいた部屋だ。
一応鍵をかけておいた。なのに兄貴は何故か合い鍵を持っていた。
何をするつもりだ? 部屋に桂人がいると思っての行動なのか。
あっと言う間に……闇に紛れるように室内に入ってしまった。
急いで俺は気配を消し、耳を澄ました。
低い声がする。これが兄貴の声なのか。
違和感を持った。何かおどろおどろしい異質な気配を感じる暗い声だった。
『桂人……寝ているのか。おい、また少し触れさせろ。もう待てないんだ。儀式まで……俺の中の森宮の血が騒いで暴れている。先に食いたくて溜まらん』
食う? 儀式?
一体それは何を意味する?
『おい桂人、つれないな。返事位しろよ。あ……っいないのか! くそっ──何処へ。まさか逃げたのか、いや……お前は絶対に逃げられないはずだ』
まずい、出て来る!
俺は慌てて物陰に隠れた。
『ふん、あそこか……』
兄貴はそのまま使用人棟を離れ、庭に迷いなく入って行った。
これは、どうすべきか。
一瞬垣間見た兄の形相は、まるで何かに取り憑かれているようだった。
どうやら森宮の正当な跡継ぎでない俺には明かされていない、大きな秘密がありそうだ。
兄貴を追いかけたはずなのに、あっという間に闇に姿をくらましてしまった。
「くそっ見失ったのか。そうだ、まずはテツだ」
振り返るとテツが立っていた。俺を追い駆けて来たようだ。
「海里さんっその先は危険です」
目が慣れてくると、眼前には白い布テープが張り巡らされていた。
なんだ? ここは……
そういえば北側の庭には足を踏み入れたことがなかった。
昔から母に『北のお庭に行っては駄目よ。悪鬼がいるから』と脅かされていたからだ。
「この先には何が?」
「分かりません。何かありそうなんですが、とても危険な何かが……」
「そうだ、これを見てくれ!」
「これは?」
テツを屋敷の街灯の下まで連れて行き、兄貴の部屋から拝借した書類を見せた。
「お前が見たのはこれだろう? 桂人と森宮家との契約書だ。この住所に見覚えはないか。お前も確か秋田出身だろう?」
「えっ?」
テツがまじまじと見つめ、その手をわなわなと震わせた。
「心当たりでもあるのか」
「あるも何も! ここは俺の出身地ですよ! 何故だ……一体何がどうなって」
「何だって!!!」
****
「テツさん……痛っ……」
叫んだって届かない事は知っている。
もう二度とあの口づけももらえない事も……
ほら見ろ。
俺の口腔内にはもう……血の味しかしない。
禍々しい躰……もう死んでいるも同然だ。
乾ききった唇の皮膜が裂けて……滲んだ血を指先で拭いた。
「あっ」
次の瞬間……雷に打たれたかのように、躰が固まった。
何かがやってくる!ここに……
来る……アイツがやって来る気配を感じた。
ガタガタと身震いした。
何故? まだその日じゃない。まだ数日あるはずだ。
木戸の隙間から覗くと研ぎ澄まされた秋空に浮かぶ月が、俺を嘲笑うようだ。
嫌だ……俺に触れるな!
あの手は嫌だ!
まだ……嫌なんだ。
駄々を捏ねる子供のように暴れたくなった。
に……逃げないと!
早く、ここから。
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