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庭師テツの番外編 鎮守の森 59
「駄目! 駄目よ──!! 」
一体、何が起きた? 確かに何かを刺した手応えを感じたのに。
すぐに時が止まったような静寂が降りて来て、おれの興奮しきった心も凪いでいった。
神剣を振りかざした時、三人の声が確かに重なった。
テツさんの「馬鹿、何をするー!」という怒鳴り声。そこに「やめろぉぉー」と叫んだ声の主は、白い曼珠沙華の精のような青年だった。そして振りかざした神剣の前に、雄一郎を庇うように現れたのも彼だった。
このままでは雄一郎ではなく彼を刺してしまうと思った瞬間、最後にあの女性が飛び込んできて、盾となったのだ。
では、おれの手の神剣は一体何を貫いたのか。
躰がガタガタと震えてきた。おれ……雄一郎さんを殺そうとしただけでなく、もしや、あの青年を刺してしまったのか。
「ど、どうしよう……テツさん……お……おれ、人を殺めてしまったのかも」
すぐにテツさんが、おれを背後から抱きしめてくれた。やさしく震える躰を大きく擦ってくれる。
テツさんの手だ……人肌が心地よい。
「大丈夫だ、桂人。お前は誰も殺してない。あの光景を見ろ。お前が刺したのは怨霊になりかけていた女性の憎しみの心だ。あの女性はお前の伯母さんだよ。彼女も生贄で儀式で当主との子を宿し……息子を授かった。その息子を庇って飛び出してきたのだ。だから刺したのではなく、成仏させてあげたのだ」
「あ……そういう事だったのか」
目の前には、崩れ行く亡霊を愛おしく抱きしめる美しい青年がいた。
「母さん、母さん……っ」
「……あなたは……瑠衣……本当に私の瑠衣なの? 」
「そうだよ」
「こんなに大きくなったの? わからなかった」
「天国から……いつも見てくれていたんじゃなかったの? 」
「……私は恨みに心を奪われて……あなたがずっと見えていなかったの。ごめんなさい……これからは天国から見守るわ」
怨霊に化していた女性は今は美しい女性の顔に戻っており、彼女を抱きしめる青年にも、おれにも……どこか彼女の面影があった。
「さよなら……瑠衣、幸せに暮らすのよ。天国でいつかまた」
やがて静かに月光に溶けて行く、透き通っていく。
彼女が流す涙は、ぽつりぽつりと天上から降り注ぐ雨となる。
それは、慈雨《じう》だった。
母が子を思う気持ちが恵の雨となり、この森宮の館を、しとしとと濡らしていく。
「母さん、僕……今は英国で暮らしています。アーサーに深く愛してもらって、幸せです。だから安心して成仏して下さい」
女性が透き通る手で、青年の頬をやさしく撫でた。
かつてよくしたであろう仕草で……
「ありがとう。私の作った兎のぬいぐるみ……ずっと大事にしてくれて」
「はい……だから、母さんに守ってもらいました」
「うっ……ありがとう。大好きな瑠衣……いい子でね……」
彼女はすっと白い霧となり、消えて行く。
霞となり、天上へと一気に駆け上がっていく。
彼の手には、神剣に貫かれた小さな兎のぬいぐるみだけが残されていた。
「桂人、最後の儀式を」
「あぁ」
神剣を白い兎から抜き、おれとテツさんで産み出した純潔な血で拭った。
いつのまにか社の中にも慈雨が降り注いでおり、神剣にも滴り落ちた。
「鎮まれ──、解き放て! 皆を正気に……もう生贄はいらない。もうおれたちは生贄じゃない! 」
テツさんの声も重なった。
「そうだ! おれたちは皆、解放される、この血をもって……」
神剣はすべての元凶を吸い込み最後に小さく一度輝き……手元から消えていった。やがて慈雨が、激しい雷雨に変わる。夜空に走る稲妻がチカチカして見えた。
「おいっ早く中から出て来い! この社は崩れるぞ!」
白衣姿の海里さんの力強い声が、後方から響いた。
「行くぞ桂人。俺と行こう! 」
「あぁテツさんと! 」
おれたちは手をしっかり取り合った。
入れ替わりに、海里さんともうひとり見慣れぬ男性が社に駆け込んできて、意識を失っている雄一郎さんを外に担ぎ出した。
「瑠衣も行こう! 立てるか」
「ありがとう……っ、アーサー」
全員、外に避難し……白い曼珠沙華の咲き乱れる道をひた走った。
振り返ると、大きな落雷が社を直撃していた。
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