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庭師テツの番外編 鎮守の森 64
目覚めると視界がクリアで驚いた。頭の中がずっと霞がかかったようだったのに明瞭になっていた。
私はいつの間に……自室のベッドに寝かされていた。
「兄貴、気づきましたか」
「海里か……私は一体」
「まさか何も覚えていないのですか」
そう問われて記憶を探すと、私が何をしようとしていたか……全て思い出した。覚えていないと言えば、この気まずさから逃れられるが、私にそれは出来なかった。
私はこの由緒正しき森宮家の次の当主だ。それ以前に、もういい大人だ。自分がしたことへの責任は、自分で負う。
「私は大変なことを。妻や子を裏切るような真似をした」
「でも寸での所で……社に瑠衣がやってきた。それも覚えていますか」
「あぁ」
「瑠衣は、俺が英国から呼び戻しました。彼の母親にも関わることだったので……とにかくギリギリ間に合ってよかった」
瑠衣は、私の美しい異母弟だ。
彼とは17歳までこの屋敷で一緒に育ったので、産まれた時から知っている。妾腹のせいで対等に扱ってもらえず苦労していたのに、見て見ぬふりをして……しかも彼が高校生の時、この手で傷つけたも同然の惨い仕打ちを。
そこで見かねた父がとうとう彼を英国に留学させ、この家との縁を切ったのだ。私自身……もう二度と顔向けできないと思っていたのに。
「ここで何があったのか、兄貴がどう判断したのか、俺に話してもらえませんか」
「……私は『仲秋の名月の儀式』のために社に向かった。儀式のことは父の痴呆がまだらに始まった時に、全て受け継いでいたので、何をすべきか全部理解していた。しかもやっと美しい桂人を抱けると喜び勇んでいたのだ。恥ずかしいことに」
****
「桂人か。遅かったな」
「……違います」
「お、お前は! 」
「雄一郎さん……お久しぶりですね。僕は瑠衣です」
社に桂人より前に現れた人物は、瑠衣だった。
「そんなに驚かないで下さい。僕はあなたを恨んでいません。英国という国へ、空高く羽ばたくきっかけをくれた人ですから」
「そんな風に言うな! ずっと私はお前にしたことへの罪の意識に苛まれているのに」
「そうだったのですね。もう大丈夫ですよ。でも……それならば何故。今回このような事を……妻子のある身で桂人を呼び寄せ、生贄としての生涯を全うさせようとするなんて惨過ぎます。あの子は僕だ。僕があぁなってもおかしくなかった」
いつも弱々しく怯えていた瑠衣は、もういなかった。
あぁそうか、そういう事か……
「そうか……瑠衣は、今……誰かに強く深く愛されているのだな」
一瞬、瑠衣は目元を染めたが、また凛とした口調で私を促した。
「雄一郎兄さん……僕が今……あなたを敢えてそう呼ぶ意味が分かりますか。あなたは半分僕と血がつながった人です。どうか自分の代で、この因縁を断ち切って欲しいのです」
「私だって……打ち勝ちたい。己の欲に……だが育ち過ぎてしまった巨木をどうやって倒したらいいのか、私には術が分からない」
「これをはるばるお持ちしました。英国のグレイ家に伝わる秘伝の『乳香』です」
瑠衣に渡された香を、私は迷いなく焚いた。
どうか……正常な世界に戻れるように!
そもそも得体のしれないまじないや、人身売買ともいえる生贄という制度に頼って、森宮家を存在させてきた自体が間違っている。
栄枯盛衰……
世の流れを受けとめ、それでも生き残りたかったら、謙虚に誠実にやっていくしかない。
コツコツと己の欲に溺れずに、生きていく。
私の代で終わらせるから、どうか過去に森宮家のために生贄になった人たちの魂よ、鎮まれ!
私が背負っていく。
この先は澄んだ目で世界を見つめ、誠実に生きていく。
****
「そういう流れだったのですね。見直しましたよ」
「違う……そんな風に言うな。まだこれからだ。私はこれから償っていく立場だ」
「では早速……ひとつ許可をもらっても?」
海里は、私の言葉を受けて微笑んだ。
「テツと桂人ですが……俺の新居で雇ってもいいですか」
「ん? 冬郷家でか」
「えぇ、あそこは使用人が全員辞めてしまって、とても人手不足ですからね」
「……もちろんだ。あの二人は、すぐにここから離れた方がいい」
海里は、私の返答にいささか拍子抜けしたようだった。
「随分すんなりですね」
「あぁ、私は自分の妻と娘たちと慎ましく暮らしていくよ。家族で力を合わせて、この家自体を健全に建て直して行きたい」
「そうですね。もう社も壊れましたし……この家を生かすも殺すも、兄貴の手腕ですね。家を……森宮家を、どうか頼みます」
海里は深く一礼した。
「いつも難しいことは、全部兄貴に押し付けてしまって……」
「いや、その言葉だけで……十分だ。嬉しいよ」
旧家の得体のしれない重圧に、私は潰されかけていた。
だが、これからは違う。
私の意志で、家のために、家族のために生きて行く。
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