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その後の日々 『別れと出発の時』 6

 執事の田村が持ってきたのは、手で抱えられる程の小さな古い木箱だった。 「これを瑠衣に渡すようにと、旦那さまからの遺言でした」 「そんな、遺言だなんて……」 「どうぞ、ご覧下さい」  瑠衣がそっと蓋を取って中身を確認すると、その手がカタカタと震え出した。アーサーが傍にいないので心配だ。大丈夫なのか。 「おい、一体何が入っている? 」 「あ、海里……これ……屋根裏部屋にあった母の荷物だ。僕が病院から戻ってきたら全部処分されてしまっていたのに、何故、今頃。父さんがずっと持っていたなんて、信じられない」 「瑠衣の母の……?」 「これは……母の櫛、母の手鏡……母の……おぼろげだが、覚えているよ」  瑠衣の声が涙で濡れて……聞き取れなくなっていく。 「へ……んだ。こんなの……なんで、こんなものがあるの? 」  さらに奥を覗き込んだ瑠衣は訳が分からないといった形相で、その場に、へなへなと座り込んでしまった。 「おい、瑠衣、どうした? 何か嫌なものでも入っていたのか」 「海里……信じられないよ。僕……どうしたら? 」  瑠衣が箱から最後に取り出して抱きしめたものは、古びた兎のぬいぐるみだった。  えっ! 何で、そんなものを父が。 「これは……母の手作りだ」 「知っているよ。瑠衣がいつも持っていた物だろう。でも何故もう一つあるんだ?」 「分からない……見たこともなかった。あ……でも、首に名前が」  もう擦れてよく見えないが、『結衣《ゆい》』と書かれていた。  これは父の筆跡だ。どういうことだ? 「母さんの名前は『結衣』だった。海里……まさか……父さんは母さんを、少しは愛してくれていたのかな……どういうことなの? これって‼ 」  瑠衣が悲痛な叫び声をあげる。    執事の田村が瑠衣の肩に手を置き、瑠衣がずっと欲しかった言葉を贈った。 「きっかけは、とても特殊な事情でしたが……私は、お二人の間に……次第に愛が芽生えたのでは推測しております。瑠衣は……だからこの世に生まれたのですよ」 「あ……うううっ……うっ」  父なりに瑠衣の母を愛していたのか。瑠衣の母との事は『生贄の生娘を手籠めにして孕ませた、非業な行い』としか思っていなかったのに。 「……瑠衣が生まれた頃は、とても難しい時代でした。まだ先代もご存命で、あんな風に結衣さんを粗末に扱うしか、彼女を生かし、この屋敷に住まわせる方法がなかったのです」 「そんな……」 「本当に……表向きには何も出来ない世の中だったのです。今よりもっと厳しい封建的な世界でした。だから二人が交換できたものは、結衣さんが作った白い兎のぬいぐるみだけでした。唯一、互いを想えるものは」 「そんな……何故、今更……生きている間に教えてくれたら」  瑠衣は蹲ったまま、立てない。  左耳のピアスが、必死に彼を励ましているように見えた。 「それは、あんな仕打ちをしたせいで結衣さんが病にかかり、結果的に母親と6歳で別れることになった瑠衣に会わせる顔がなかったのかと。旦那さまはプライドのお高いお方でしたから。それでも冬郷家に瑠衣を預けたのは、旦那さまですよ。最高の待遇で執事として働けるように願い出たのです」  そうか、それで瑠衣は……冬郷家で、あのような待遇を……  冬郷家の、柊一のご両親は博識ある素晴らしい人徳者だったので、全てを理解して瑠衣を13年間も庇護してくれたのか。そして最後はアーサーの元に旅立たせたのだ。家が傾いているのを知っていたからこそ、行かせてあげられるうちにと……  なんだ……この話は……泣けてくる。  もうこの世にいない父なりの配慮に初めて触れて……心が震えた。 「海里、海里……どこ? 」 「あぁ、ここだ」 「とにかく……僕は、この世に生まれて来てもよい人間だったんだね」 「馬鹿、当たり前だろう。人は皆その権利を持っている」 「僕は生まれて来てはいけない子供で……ずっと……母のことを可哀想な人だと、息子の僕までも哀れんでいた」  お母さんが存命の頃は、俺の母がかなり攻撃していたらしく、父は何もしてやれなかったのだろう。だから瑠衣の母の恨みが募り……成仏できないでいたのだ。  今頃……天上の世界で、瑠衣の母と和解しているのだろうか。俺の母とも兄貴の母とも……和解して、うまくやって欲しいよ。  罪作りな父だったが、戦う力や生き残る術に長けた……時代の申し子だったのかもな。今の世には通じないが。父の知らなかった一面を垣間見て、俺の方も蟠りをもう捨てようと思った。 「父さん……今生では疎遠な親子でしたが、俺をこの世に生かしてくれてありがとうございます」 「海里……僕も同じ気持ちだ」  俺たちの様子を見守っていた兄貴が、眼鏡を外してハンカチで目尻の涙を拭いた。 「あぁそうだ。二人とも私の弟だ。亡き父の血を受け継いだ大切な弟だ。私たちはいろいろあったが、今は……心をひとつに揃えた『三兄弟』だろう。そうなりたい」  年長の兄の言葉が響く。  当事者にしか分からない……想いがある。    父さん……あなたの複雑で屈折した人生の中に、少しでも愛があったのなら……  それは残された人の希望となる。       あとがき(不要な方はスルーして下さい) *** 『ランドーマーク』英国編ラストから約15年後の後日談のような内容になってしまいました。 瑠衣の母の件や、雄一郎さんと瑠衣の間に起きた事件などは『ランドマーク』の冒頭で書いております。ご興味あれば……

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