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峠の先 13
「今から患者の家族に説明してくる」
「あのっ先生、これを」
「どうして?」
婦長が持たせてくれたのは、マグカップに入った熱々のココアだった。
「海里先生、今日の手術……ありがとうございます」
「何故、君が?」
年配の彼女の目には大粒の涙が浮かんでいた。
「私は雪也くんが、3歳の時からお世話してきました。雪也くんが小公子のように院内をお母様と執事に導かれて歩いていた日々は、ついこの間のように感じます」
「そうだったな。婦長はあの晩当直で、俺のサポートしてくれたな」
「えぇ、海里先生の白衣が、王子様のマントみたいで素敵でしたよ」
「そ、そうか」
それは柊一に後に明かされたことなので、照れ臭くなった。
「ゆきくん、ココアがお好きなんですよ」
「そうだったな。特別室を利用していた時は、いつも飲んでいたね」
「今は……術後で飲めないので、雪也くんによく似ていらっしゃるお兄さんに飲んでいただこうと」
「そうだね。彼は……雪也くんの唯一の保護者だから」
「……幼いのに大変な苦労をしましたものね」
「……行ってくる」
温かなココアの湯気を漂わせながら、俺はまっすぐに向かった。
柊一の待つ『てんしのとしょかん』へ。
扉を開けると、祈りのポーズで頭を垂れていた柊一が、スクッと立ち上がった。
俺は扉を閉めココアをテーブルに置いて、両手を大きく広げた。
この空間は、この日のこの時間のために存在する二人だけの世界――
「おいで!」
「か……海里さん」
柊一が勢いよく飛び込んでくる、俺の胸に。
「待たせたね」
「ゆ、雪也の手術はどうなりましたか」
「無事に成功したよ」
「よ……良かった」
「雪也くんはしっかり闘ってくれたよ」
安心して力が抜けたのか、柊一は、そのままヘナヘナと……床に膝をつきそうになったので、慌てて細腰に手を回し、上に引き上げてやった。
「大丈夫か」
「は、はい。ほっとしたら……急に力が抜けて」
恥ずかしそうに微笑む彼の目元に接吻をした。
「さぁ、おいで」
柊一の足に手を入れて持ち上げてやる。
「あ、あの……」
横抱きにして、ソファにつれていく。
執刀直後で心身共に疲弊しているはずの俺にまだこのような力がと、自分でも意外な心地がした。
柊一のために湧いてくる力は限りない。
愛しい人。
その存在がどんなに力となっているのか。
「さぁ、お飲み。ココアだよ」
「あ……ゆきの好きなココア……」
「雪也くんは集中治療室で過ごすので、すぐには面会出来ない」
「はい」
「だからこれをゆっくり飲んで、心を落ち着かせよう」
柊一は両手でココアのマグカップを持ち、ふぅふぅと息を吹きかけて飲み始めた。
「甘くて、美味しいです」
「良かった。これは雪也くんを幼い頃から知っている婦長のお手製だよ」
「そうなんですね。嬉しいですね……今でも気にかけて下さって」
優しい柊一を見守るだけで、疲れが癒やされるよ。
すると柊一がマグカップを置いて、俺の右手をそっと包み込んでくれた。
「海里さん、お疲れ様でした」
ココアで温まった手の温もりが届く。
「柊一はどうして……そんなにまで……俺に優しくしてくれるのだ?」
このように深く慈しまれた経験も、愛おしまれた経験もない。
柊一だけだ。
こんなにも深く強く、俺を愛してくれるのは。
俺に生まれるのは、切なくも嬉しい、泣きたくなるほど恋しい気持ち。
「海里さんを『親愛』しているからです。恋人として家族として仲間として……人として大好きなんです。雪也を救って下さって、ありがとうございました」
柊一から、手の甲に口づけを受ける。
俺の気持ちは、十分に満たされる。
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