381 / 505
峠の先 16
「もっ、もう、いい……」
「桂人、どうだ? 気持ちいいか」
「きっ……気持ちよくなりすぎるから、よせっ!」
テツさんが足の腱にじっくりと唇を這わせてくる。
傷を労るように慈しむように何度も辿られた。
直接あそこを触られているわけでもないのに、どうしてこんなに過敏に感じてしまうのか。溜らない……気持ち良過ぎる。
「うっ……」
目を細め見上げた空から、白い雪のような物体がひらひらと舞い降りて来た。
「雪……? それとも羽か」
「いや、あれは薔薇の花びらだな」
「えっ、見せてくれ」
身を起こし舞い落ちてきたものを拾い上げると、テツさんの言う通りだった。
薄く紫がかった白。
まるで天使の羽のような花びらだ。
「こんな薔薇、あったか」
「これは『ガブリエル』という品種だ」
「ふぅん? 『ガブリエル』って、外人の名前か」
「大天使の名だよ。これは天使の名を持つ持つ神秘的なバラなんだ。しかし驚いたな、枯れたと思っていた薔薇が、いつの間に生き返ったのか」
辺りを見渡すと……俺たちが座っている東屋の前方に、薄紫の美しい薔薇が見事に咲いていた。先ほど通った時は存在すら気がつかなかったのに。
薔薇は花の中心が淡く紫がかかっており、天使の羽根のような白い花弁が、ふんわりと開いていた。凜とした中に、優しさが満ち溢れていた。
甘い香りが、心を擽る。
この薔薇には、心に安らぎを与える力が宿っている。
「テツさん、ちょっと調べてみるよ」
瑠衣さんから受け継いだ辞典の中に、確か天使について書かれていた部分があった。
「あ、ここだ……」
『|ガブリエル《Gabriel》はヘブライ語で神の人という意味を持ち、神の言葉や意思を人間に伝える役割を持つ大天使です』
では……おれの願いは届いたのか。この薔薇は、きっと雪也くんのご両親からの贈りものだ。彼らが天上から雪也くんを守り、柊一さんを励ましてくれたのだろう。
「テツさん! 雪也くんの命は、無事にこの世に繋がった予感がする!」
「そうだな。きっと今頃、手術が終わって目覚めたのではないだろうか」
俺の予感通り……屋敷に戻るとすぐに、柊一さんから電話があった。
「テツさん、桂人さん、雪也は無事です! 手術は無事に終わりました! ご心配をおかけしましたが、成功しました!」
感極まった彼の声に、おれの心もグッと熱くなった。
生きているって、すごいな。
おれも自分の胸に手をあてて、鼓動を聞きたくなった。
「俺も……ちゃんと生きている」
「そうだ。桂人もちゃんと生きている。だからもっと俺を見てくれよ」
「あぁ……そうだな。さっきはすまない。過去に引きずられた。おれ、これからはいい予感だけを感じていくよ」
「そうだ、桂人、俺たちは前へ前へ……進むのだ」
疲れて帰ってくるであろう海里さんと柊一さんのために、今日も俺は瑠衣さん伝授レシピと睨《にら》めっこして、夕食を作った。
「テツさん、味見をしてくれよ」
「へぇ、上手そうだな」
「本当に?」
伴侶のテツさんは、おれに甘すぎるのが心配だ。
だが……誰にも甘えられなかったおれにとって、最高に居心地のいい人だ。
その晩、柊一さんと海里さんの寝室に薔薇を生けた。
『ガブリエル』という名の薔薇を――
奮闘し疲れきった二人を、癒やして欲しくて。
天上に咲く薔薇よ、力を――
その後、部屋に戻り風呂に入った。
風呂上がりはいつも……テツさんが無骨な指でおれの髪を梳いてくれる。
優しく暖かな眼差しで、和やかに見つめてくれる。
視線は日溜まりのようだ。
「桂人……寒くないか」
布団に誘ってくれ、直接の温もりも分けてくれる。
「あたたかいよ。テツさんの手が……」
おれはテツさんの手を掴んで……そっと頬ずりした。
「この手が……とても好きだ」
ともだちにシェアしよう!