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峠の先 16

「もっ、もう、いい……」 「桂人、どうだ? 気持ちいいか」 「きっ……気持ちよくなりすぎるから、よせっ!」  テツさんが足の腱にじっくりと唇を這わせてくる。  傷を労るように慈しむように何度も辿られた。  直接あそこを触られているわけでもないのに、どうしてこんなに過敏に感じてしまうのか。溜らない……気持ち良過ぎる。 「うっ……」    目を細め見上げた空から、白い雪のような物体がひらひらと舞い降りて来た。 「雪……? それとも羽か」 「いや、あれは薔薇の花びらだな」 「えっ、見せてくれ」    身を起こし舞い落ちてきたものを拾い上げると、テツさんの言う通りだった。  薄く紫がかった白。  まるで天使の羽のような花びらだ。 「こんな薔薇、あったか」 「これは『ガブリエル』という品種だ」 「ふぅん? 『ガブリエル』って、外人の名前か」 「大天使の名だよ。これは天使の名を持つ持つ神秘的なバラなんだ。しかし驚いたな、枯れたと思っていた薔薇が、いつの間に生き返ったのか」  辺りを見渡すと……俺たちが座っている東屋の前方に、薄紫の美しい薔薇が見事に咲いていた。先ほど通った時は存在すら気がつかなかったのに。  薔薇は花の中心が淡く紫がかかっており、天使の羽根のような白い花弁が、ふんわりと開いていた。凜とした中に、優しさが満ち溢れていた。  甘い香りが、心を擽る。  この薔薇には、心に安らぎを与える力が宿っている。 「テツさん、ちょっと調べてみるよ」 瑠衣さんから受け継いだ辞典の中に、確か天使について書かれていた部分があった。 「あ、ここだ……」   『|ガブリエル《Gabriel》はヘブライ語で神の人という意味を持ち、神の言葉や意思を人間に伝える役割を持つ大天使です』  では……おれの願いは届いたのか。この薔薇は、きっと雪也くんのご両親からの贈りものだ。彼らが天上から雪也くんを守り、柊一さんを励ましてくれたのだろう。   「テツさん! 雪也くんの命は、無事にこの世に繋がった予感がする!」 「そうだな。きっと今頃、手術が終わって目覚めたのではないだろうか」  俺の予感通り……屋敷に戻るとすぐに、柊一さんから電話があった。 「テツさん、桂人さん、雪也は無事です! 手術は無事に終わりました! ご心配をおかけしましたが、成功しました!」  感極まった彼の声に、おれの心もグッと熱くなった。  生きているって、すごいな。  おれも自分の胸に手をあてて、鼓動を聞きたくなった。 「俺も……ちゃんと生きている」 「そうだ。桂人もちゃんと生きている。だからもっと俺を見てくれよ」 「あぁ……そうだな。さっきはすまない。過去に引きずられた。おれ、これからはいい予感だけを感じていくよ」 「そうだ、桂人、俺たちは前へ前へ……進むのだ」  疲れて帰ってくるであろう海里さんと柊一さんのために、今日も俺は瑠衣さん伝授レシピと睨《にら》めっこして、夕食を作った。 「テツさん、味見をしてくれよ」 「へぇ、上手そうだな」 「本当に?」  伴侶のテツさんは、おれに甘すぎるのが心配だ。  だが……誰にも甘えられなかったおれにとって、最高に居心地のいい人だ。   その晩、柊一さんと海里さんの寝室に薔薇を生けた。 『ガブリエル』という名の薔薇を―― 奮闘し疲れきった二人を、癒やして欲しくて。    天上に咲く薔薇よ、力を――    その後、部屋に戻り風呂に入った。  風呂上がりはいつも……テツさんが無骨な指でおれの髪を梳いてくれる。  優しく暖かな眼差しで、和やかに見つめてくれる。  視線は日溜まりのようだ。 「桂人……寒くないか」  布団に誘ってくれ、直接の温もりも分けてくれる。 「あたたかいよ。テツさんの手が……」  おれはテツさんの手を掴んで……そっと頬ずりした。 「この手が……とても好きだ」

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