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峠の先 20
「柊一、君も疲れただろう」
「海里さんこそ」
海里さんと僕は、静かにベッドに横たわった。
すぐに海里さんの逞しい腕に引き寄せられ、背後から耳朶を舐められたり、項《うなじ》を啄まれて、ドキドキしてしまう。
僕の腰をグッと抱き寄せる海里さんの逞しい腕に、手をそっと重ねた。
海里さんの手が愛おしいです。
この手で雪也の手術をしてくれました。これは執刀医の手です。
同時に、僕を抱きしめ、愛して下さる優しい手でもあります。
だから海里さんの手は『魔法の手』です。
そのまま今宵も抱かれるのかと身を委ねようと思った所、海里さんの動きがだんだんとゆっくりになり、そのまま停止してしまった。
「あの……海里さん……?」
声をかけても反応がなく、僕にもたれるような重みを感じた。
「もしかして……眠られてしまったのですか」
聞こえるのは安定した寝息だけ。
やはり相当お疲れだったのですね。 行為の最中に眠られてしまうなんて初めてです。でも愛しい人の穏やかな寝息を愛おしくて、僕は愛撫の代わりに、寝息に耳を澄まして眠りにつくことにした。
兆していたものも、自然と凪いでいく。
まどろみながら、一つだけ気がかりなことを反芻した。
英国に住む瑠衣の元に送った僕からの手紙は、そろそろ届いただろうか。
手術の成功は、先ほど海里さんが伝えて下さった。
瑠衣……手術日を事前に電話でお知らせしなくてごめんなさい。
瑠衣にはお世話になってばかりで、これ以上の負担を掛けたくなかった。
昨年、僕の様子を見に来てくれ、冬郷家の残務処理を手伝ってもらったね。そして秋には森宮家との関係で、あの仲秋の名月の事件に巻き込まれ、大変だった。
英国で一生を過ごすつもりで渡英したのに、この1年間は日本と英国を行ったり来たりでドタバタだった。
だからもうこれ以上は、駄目だ。
瑠衣はいつも優しい。僕も雪也も大好きだから、瑠衣がいるとつい甘えてしまう。
だから手紙という手段を使って……ごめんなさい。
今度は健康になった雪也を連れて、僕たちが英国に行く番だ。しっかり雪也の傷を治して必ず行くから、待っていて。
そう手紙には書いた。
****
薔薇の甘美な香りに包まれて目覚めると、カーテンの向こうがいつもより明るい気がした。
「あれ? 俺……昨日どうした?」
柊一を抱こうと愛撫を繰り返しているうちに……ま、まさか途中で寝てしまったのか。これは参ったな。
「なんたる失態だ」
思わず口元に手をあて愕然とした。愛しい柊一の身体を味わうのを途中で放棄するなんて、ありえない。いくら疲れていたからって、それはナイよな。
自己嫌悪に包まれていると、柊一が目を覚ました。
「あ……海里さん、おはようございます。よく眠れましたか」
「柊一、昨夜はすまない」
「一体何を謝るのですか」
「俺、途中で眠ってしまうなんて……失態を」
最近の俺は、少し変だ。
柊一の前で、前のようにスマートでいられない。
涙を浮かべたり、眠ったり、これでは呆れられてしまうよ。
「海里さんはお疲れだったのですから当然ですよ。それに僕にもたれるように眠って下さって嬉しかったですよ」
「はぁ……参ったな。格好悪い」
「とんでもないです。僕はとても嬉しかったです」
柊一は拗ねることなく、むしろとても嬉しそうに微笑んでくれた。
「よかったら……もっともっと見せて下さい。僕だけに見せて下さる顔が増えると嬉しいです」
「……参ったな。それでは……柊一に甘えてしまいそうだ」
今まで、こんな風に誰かに心を委ねたことはなかった。
柊一のことは俺が全部守る。
衣食住……心も身体も全部!
そう意気込み、柊一の前ではいい顔をしてしまいがちだった海里はもういないのか。
「もっと甘えて下さい。僕も甘えます」
「柊一、ありがとう」
俺に真実の恋を教えてくれたのは、柊一だ。
俺に真実の愛を教えてくれるのも、柊一だ。
「君に生涯の愛を誓うよ」
「はい、あの……よかったらご一緒に天上のお父様とお母様に報告をしませんか」
薔薇の芳香が立ち込める部屋で、俺たちは祈った。
『喜ぶことを忘れずに。そして絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい』と、聖書には書かれている。
喜び、祈り、感謝――
そして柊一
俺たちの人生は、シンプルでわかりやすいな。
この先、もっともっと削ぎ落として、どんどん分かりやすくなっていくだろう。
峠の先を見たのは、雪也くんだけではない。
俺と柊一も、峠を越えたのだ。
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